日常的殺人、もしくは幸福

 世界で一番殺人が多い場所は、職場もしくは家庭である。という話を、どこかで読んだ。子どもであれば、職場を学校に読み換えてもいいだろう。
 
 わたしたちは、ときおり起きる凄惨な殺人事件には注目し、心を痛める。そんな目に遭わないように気をつけようと思う。でも、日常的に起こっている出来事には、あまり注意を払わない。
 
 昨日も今日も上司からパワハラを受けている、とか、このところ慢性的に夫婦仲が悪いとか、そういう事実はありふれていて人の気を惹かない。そうこうしているうちに、家庭でも職場でも人が殺したり殺されたりの事件が起きる。
 
 わたしたちが一番気にしなくてはいけないのは、ときどき起こる非日常的な出来事じゃなく、目の前の日常のほうなのだ。「起きるかもしれないこと」への警戒や備えは大事だけど、最重要事項は「目の前で実際に起きていること」のはずだ。
 
 最近、2組の離婚を近くで見かけた。どちらも子どもが2人いる家庭で、日常的なズレを根本的に解決できないまま破綻した。日々のあいだに小さく入ったヒビを放置すると、いつか大きなひずみになってしまう。
 
 日常っていうのは、いつも手当をしてないといけない。必ずどこかがほころびたり、傷ついたりするから。毎日使う道具を手入れするように、日常生活にもメンテナンスが必要なのだ。
 
 職場や家庭みたいな、毎日のように顔をあわせる場所で、どういう経緯で殺人に至るのかは知らない。ただ、積もり積もって何かが爆発したんだろうな、という想像はつく。雨だれ石を穿つような、些細な積み重ねの果てに、引き金が引かれてしまった。
 
 だから「些細なこと」を軽く見ないほうがいい。それはたとえば「会ったら挨拶をする」程度のことかもしれない。あるいは、家族がでかけるときのために、玄関の靴を揃えて置いてあげる、程度のことかもしれない。
 
 その程度。その程度が積み重なって、人間は不幸にもなれば幸福にもなる。
 
 地上で最も幸福なのは「日常生活が幸せな人」なのであって、それ以外に答えはない。億万長者でも大詩人でも、スーパースターでもなく、日常が幸福な人。持って生まれた資産や才能や、収入や学力に関係なく、「いつも」が「いい感じ」であること。
 
 いつも接している人は、特に家族は、自分にとって一番の脅威でもあり、幸福の源でもある。だから大事にしないといけない。「家族を大事に」って言うと綺麗事みたいだけど、その人たちはある意味、わたしを殺す可能性がもっとも高い人たちですからね。
 
 世の中にはいろんな事件が起きて、そのたびにみんなざわつくけれど、目の前の出来事には無頓着だったりする。
 心のどこかで「このままだと自分の首が絞まる」とわかっていても、昨日も今日も無事で過ごせたせいで、そのまま状況を放置する。そしていつか「その日」が来る。溜まりに溜まったなにかが顔を出す日。
 
 そうならないためにも、小さな優しさとか親切が大事なのだ。あるいは「ただ話す」「ただ一緒にいる」だけでも。そういう毎日のささいな出来事が「なにか」の爆発から日常を守ってくれる。
 
 だから近くにいる人ほど、ちゃんとコミュニケーションを取ったほうがいい。最近とみにそんなことを思う。
 
 破綻した夫婦の言い分を聞いていると「相手よりも自分が損をしている」みたいな気持ちが互いに強いように見えた。当事者じゃないからわからないけど、損ってどれくらいの損なんだろう、とは思う。
 
 少し目の前の利益を譲ったとしても、家族が長く円満でいられるなら、それは損どころか投資なのだよな。いま自分の支払っている労力なり金銭なりが、純粋に損になることって、家族間だとめずらしい気もするけど、どうだろう。
 
 かく言う自分も、夫婦間で「モヤっとポイント」を貯めることはあるので、話し合いによって早急に解決していきたい。それは家族のため、夫婦のためでもあるけど、究極的には「自分が殺人犯にならないため」だと思ってやっていく。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。