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ワケがわからない↔知性の働き

 知性が要求されることのひとつに「訳のわからないものに真摯に対応する」がある。
 
 むかし読んだ本の中に、超能力者と付き合うノンフィクションがあった。本人はまるで超能力を信じていないのだけど、「あるわけない」という確信が揺らぐような出来事にたくさん出会う。そのたびに「超能力はある」とも「ない」とも断言できずに途方に暮れる。
 
 記憶をたぐって引用すると、こんなエピソードがあった。
 
 超能力者の父親がふっと「しつけには苦労しましたよ」と言う。聞いたほうの頭にはハテナが浮かぶ。しつけ?なんの関係があるんだろう。父親は続けて言う。
 
「お金を渡していないのに、自動販売機のジュースを手に持ってるんですよ。どうやって買ったんだかわからない。お前のやったことは泥棒なんだよって言い聞かせるのに苦労しました」
 
 超能力の当事者いわく「ジュースを見て『欲しいな』って思うと、次の瞬間には手の中にあるんだよ」。
 
 記憶に頼った引用はここまで。もちろん常識で考えればありえない話だ。だからエピソードを書いているほうも困惑していた。目の前のお父さんが嘘をついているとはどうしても思えなかった、と。だけど一方で、そんなことありえるはずないんだと。
 
 読んだ自分も反応に困った。「超能力者の息子を授かった」と周囲に吹聴したいホラ吹きにしては、内容が地味すぎる。嘘だとしたらつく動機がない。ホントだとしたら物理法則を無視している。
 
 自分の「常識」が適用されないものに向き合うのはむずかしい。日頃「正しい」と信じていることが揺らぐ。絶対だと信じてきた物理法則が裏切られたら、誰だって戸惑う。でなければ反発してハナから信じない。
 
 「正しさが揺らぐ」経験については、木村敏が『異常の構造』の中で書いていた。たとえば統合失調症の患者と会話をするのは、常に訳がわからないことの連続だ。ある人の妄想体験の中身が綴られているが、その内容は常識でいけばすごく「わからない」。

「(…)母は男である。自分は男であるけれども女でもあって、子供を産んだ。自分は日本人ではない、どこの国の人なんだろう。(中略)私はどんな次元にでも行ける人間らしい。自分という人間がテンデバラバラになって四方に散っちゃうんです。自分の心でない心が自分につながっているみたい」

木村敏『異常の構造』講談社、2022年、128-129頁。


 ワケわかんない、と切り捨ててしまえばそれまでだ。それが病気だってことなのよね、そうそう、治るといいわねと人は言う。でもどうだろう。どうしてこの人はこんなことを言うのか、もう少しだけ想像力を使って見れば、違う風景がきっと見える。
 
 彼らは「私が私である」という常識に異を唱えているように見える。

 ものすごく単純な図式、私=私、A=A、1=1。というのはつまり、1はゼロではなく2でもないのであり、私はあなたや彼ではない。
 
 でもこの式が絶対に成り立つと、どうして言えるのか?私が私であることを誰が保証してくれるんだろう。患者と接する中で、木村敏は「こっちの世界」の常識を相対化していく。彼らにしてみれば、おかしいのは僕らのほうかもしれない。
 
 彼らには僕らとはまったく別の見え方で世界が見えていて、もし僕らがそちら側に身を置くことができたなら、トンチンカンなのは「こちら側」だということになるだろう。彼らには重複するたくさんの世界が感じられていて、僕らにはそれを感じる能力がない、それだけかもしれない。
 
 こういうスタンスでものを見られるのはいいな、と思う。なにかを「意味わかんない」と切り捨てるのではなくて、相手には相手なりの合理性があるのだと考える。ワケのわからない相手を矯正して、理解可能な存在に仕立て上げようとしない。
 
 わからないものに耐え、理解しようとし、ときには自分の常識も脇に置く。知性がないとこれはできない。わからないものは怖いから、たいていの人は相手を理解可能な言葉や概念に押し込めてしまう。「病気」とか「異常」とかいう言葉でわかりやすく片付けて、それきり考えずに済むようにする。
 
 だけどそうやって片付けたものの中に、思わぬ豊かさがあるかもしれない。「わからない」を受け入れると「わかる」に変わっていくパラドックスは、知性の贈りものに見える。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。