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誰でもない誰か

 瓶の中に手紙を詰めて海に投げる。いつか誰かが拾って、それを読むかもしれない。投げた側は、読み手のことを何も知らない。誰に宛てているかわからない手紙。でも確かに「誰か」に向かって書かれている手紙。
 
 詩も同じだ。どこかにいる誰か、誰でもない人に向かって書かれる。具体的な名前も顔も、生きている時代もわからない。その何一つわからない人に宛てて詩が書かれる。

僕の才能など取るに足りない、それに僕は有名でもない、
でも僕は生きている──
僕の存在を貴重に思ってくれる
誰かがこの世にいてくれるから。
僕よりはるか未来のひとが僕の詩のなかにそれを
再び見つけ出す、すると僕の魂は──
誰がそれを知りえよう──そのひとの魂と結ばれる。
僕は友人は僕の世代に見つけたが、
読者は未来に見出すだろう。

バラチンスキー

 詩だけじゃない。小説でもなんでも、なにかしらの作品に触れて、書き手と自分の関係について考えるとき、こういうことを思う。書いた人は当然、わたしのことを何も知らない。作者にとって私は「どこかにいる誰か」「誰でもない誰か」。
 誰でもないけど確かに存在する。ここにいて作品を受け取っている。砂浜に打ち上げられた瓶を開けるような気持ちで、自分に宛てられたものを読んでいる。
 
 作者にとって自分が「未来の匿名の読者」なんだと考えると、いつもなんだか変な気分になってしまう。名前も顔を知らない者同士が、一方通行の手紙で関わっている。時代も空間も超えて。
 作者は私を誰だか知らなかったけど、砂浜に落ちた瓶を拾い上げることは知っていた。本屋の棚から抜いて家に持ち帰ることは知っていた。漫画のコーナーから引っ張り出すことを想定していた。
 妙な関わり方だなあ。あたりまえと言えば、あたりまえなんだけど。
 
 今日は美術館に行っていた。日本画家の展覧会だったから、ブラウスの上から着物を羽織り、ウェストの太いスカートを帯代わりにして出掛けた。着物は中古で買ったものだ。1000円+消費税。
 これを、昔は誰が着ていたか知らない。どんな気持ちで着ていたかも知る由がない。着ていた側も当然、将来だれの手に渡るかなんて考えなかっただろう。
 偶然の物事はどれも、海を介した投壜通信に似ている。いろんな波が重なって、流れついたところが落ち着きどころだ。誰にも予測できない。
 
 ずいぶん前に死んだ画家の絵を見る。もともとは新聞小説の挿絵として描かれたものも多い。こんな風に美術館で、ガラスの向こうにたくさんの観客を迎えるなんて、作者も思ってなかっただろう。
 匿名の鑑賞者として、もう亡くなった画家と関わる。わたしは誰でもないけれど、確かに絵の前でそれを見ている。会場では肉声のインタビューが流され、画家は「戦争の絵なんか描きませんよ」と笑いながら言う。私はそれを聞く。
 
 「誰でもない」は「何者でもない」であり、否定形でありネガティブだ。名前も顔もない。不在で未知の誰か。そんなのいないと同じじゃないか?
 こう言われたら「いないも同じ」と「いない」の間には、超えられない溝があるね、と言う。手紙を投げる人にとって、受取人の姿はわからない。生きている間に会える保証もない。いないも同然だ。
 でも瓶を海へ投げる人は、その存在を信じて投げる。その限りにおいて受取人は存在する。どこにもいない誰か、誰でもない誰かが。
 
 絵を見ていると「この絵は確かに、未来に受け取り手を見つけましたよ」と画家に話しかけたくなる。ここにいますよ。生前には予想もしなかった鑑賞者が、会場の外にも溢れて。
 亡くなった人にはもちろん届かない。届かなくても、匿名の誰かに宛てた絵は受取人を見つけた。帰り際、見知らぬマダムが「素敵ね」と着物を褒めてくれた。


着物はこの本に影響されて 

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。