キモくて構いません
『虞美人草』を読む。夏目漱石。
プライドの高い美女が出てくる。通勤電車の中で読んでいて、どうしても昔つきあっていた彼女がちらついた。一度そう思ってしまうともう最後で、作中で「藤尾」の名で出てくる女は、すっかり元の彼女と重なっている。
きれいな人だった。頭がよく口が悪く、頼りがいがあり生意気で、根は優しい人。こういう女性を嫌いになれるはずがないし、同じ女性だからという理由で好きになれないはずもなかった。
藤尾は彼女よりも身勝手だけど、美人でプライドが高い点が共通している。つきあっていた女の子のほうは和服がよく似合う人だったから、着物が普段着の時代の小説に現れて違和感がない。
空想の中では、藤尾がつけている紫のリボンを彼女がつけ、袴姿でいるところが見てきたように再生できる。作中で袴シーンはなかったかもしれないけど、彼女は着物より袴が似あうだろう。ハイカラな感じがきっとよく似合う。
こうやって小説の世界と現実は混ざり合っていく。この感覚は悪くない。誰にも手出しができない世界が自分の中にあるのは悪くない。
頭の中で人を着替えさせる行為って気持ち悪いんだろうな。もっとも自分だって他人に何をされているかわからないから、こんなのはおあいこだ。想像でやる以上は、惨殺でもなんでも好きにしてほしい。
言い訳のように書いておくと、彼女のことは好きだったけど、それはとてもプラトニックなものだったから、生々しい空想はしたことがない。誰に対しての言い訳なんだかわからない。とにかくその点は潔癖を主張できる。最初から、なんの罪にも問われてはいないけど。
仮に生々しかったところで、内面で起こることなんてどれも自由であり、誰も踏み込めはしない。誰も他人の内側に押し入って裁くことはできない。人の頭の中にまで入り込んできて、あれは正しいからよいとか、これは不道徳だからやめろとか言う人間は、それこそ変態である。
憲法第19条:思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
作中の藤尾は最後に死ぬ。プライドの高さがたたって死ぬ。そのときの場面だけは、どうしても彼女で思い浮かべることができない。もの言いはキツいけど優しい人だったから、そんな風には死なないだろうし、そんな風に死んでほしくない。
気位が高く美しいという点だけは共通しているけど、やっぱり小説は小説、現実は現実なのであって、彼女だっていつまでも過去のように美しくはないのかもしれない。フィクションの中の誰かのようにひどい死に方をしない代わりに、長い現実生活が彼女を変えてしまうかもしれない。
架空の世界のいいところは、時間が経たないことだ。若く美しい人は若く美しいまま話を終えることができる。本から外に出るとそうはいかない。
つきあっていた女性を最後に見たのは、人でごったがえす駅の中だった。そのときにはもう連絡が絶えていて、ただ遠くから姿を認めただけだった。かつては早足でハイヒールを鳴らし、ポニーテールを揺らしていた女の子は、ボロボロのスーツで足をひきずるように歩いていた。いまはどうしているか知らない。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。