見出し画像

なんでこの時代に本なんて

 読んでいる本に、こんな文章が出てくる。文房具屋を営む人のセリフ。
 

「言葉、みんなが使う」と男はさらに言った。「みんないろんなこと書く。子供たち、学校行って私の本で勉強する。先生、私の本に成績つける。私の売る封筒でラブレター送られる。会計士の帳簿、買い物リストのメモ用紙、一週間の予定表。ここにある物、みんな暮らしに大切。そのこと私嬉しいね、私の人生に名誉ね」

ポール・オースター『オラクル・ナイト』柴田元幸訳、新潮社、平成28年、12頁。


 いい演説だ、と思う。小さな文房具店を切り盛りする人の、誇りある台詞。人々の暮らしを支えているという、おごり過ぎない自負がいい。ここでは言葉は、書かれるものとして考えられている。ノートに帳簿にラブレター。
 
 でも書き言葉って廃れてきてる。本は売れなくなってきているし、動画が隆盛を極めてる時代だし。
 
 大学のころ、フランス哲学の先生がこんなことを言っていた。

「僕らがいまの時代に、学問とか哲学とか、やろうとする意味ってなんなんだろうと思って……。だっていまって『イマージュ』の時代じゃない。写真とか動画とかの時代。画像がバーっと拡散されて、インスタグラムとかで。で、みんな反射的に『いいね!』を押して、また次に行く……」
 
 そういう時代に、本を読んだり書いたり考えたりして、僕ら一体なにをやってるんだろうね……。
 先生は、誰かに答えを求めるわけではなく、ただ疑問を共有するようにつぶやいた。眼鏡の似合う端正な顔立ちの先生で、話すときにときどき沈黙する。ゆっくりゆっくり話す。「焦る」ということをおおよそ知らない人に見えた。
 
 「イマージュ」とは、英語のイメージを意味する。フランス語だ。イマージュは実体がない。誰かの写真が、写真に映っている人そのものではないように、イマージュはいつも現実から浮き上がっている。実物じゃない、ただのイメージ。実体のないものが跋扈する時代。
 
 このご時世に、なんで本なんて読むんだろうな……。時間はかかるし、文字を追う労力だってあるのに。動画は、こっちがボケッとしていても勝手に情報が飛び込んでくるけれど、書き言葉を追うのはそうはいかない。ある程度、自分が前のめりにならないと頭に入ってこない。
 
 「言葉、みんなが使う」。それはそう。でもイマージュの時代になって言葉は、動画や画面の中で装飾されて、目に飛び込んでくるものになった。手で書かれるものではなく、静かに読まれるものでもなくて、装飾され目立ち、人目を惹くためのたくさんのテロップ。
 
 人目を惹くためのものだから、目立つのはあたりまえだ。目立つからわかりやすいから、人はそっちに流れる。本に書かれている言葉は、どこにも装飾がない。たいていは同じフォントで延々とページを埋めていく。
 
 動画に慣れた人からすれば、本はサービス精神がないのだろう。こんな読みにくいものは廃れてあたりまえ、と思われているかもしれない。言いたいことがあるなら、BGMを流しテロップをつけて、人に見られる努力をしろ、と。
 
 理屈はわかる。だけど自分だったら、本の内容を紹介した動画を見るより、本を読みたい。読まれるために、動画のような努力をしている文章じゃなくて──一行ごとにスペースを空けて、やたらといろんな箇所が太字になり、ときどきマンガの効果音のような絵が入る──じゃなくて、延々と同じフォントの文章でいい。
 
 好きなのは游明朝。明朝体よりもなんかいい。BGMなんてなくてもずっと読んでいられる。
 
 なんでこんな時代に、僕ら本なんて読んで書いて、考えたりするんだろうね……。先生の問いに答えるとしたら、そういう風にしか生きられない性質(たち)だから、でしかない。イマージュの反射的なスピード感に乗れなくたって、本を読んで生きていられる。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。