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たそがれる人々

 黄昏とは「誰そ彼」からくるものだと、以前父が教えてくれた。誰そ彼、そこにいるのは誰ですか。会う人が誰であるのかわからないほどの、明るい暗闇。動詞で「たそがれる」となれば、これは夕闇を迎えることを意味する。
 
 むかし秋田の実家にいた頃、街のとある食堂が閉店した。港の近くにあり、大衆向けに魚料理を出す店だったが、街の人口が少なくなり、客もいなくなり、商売が傾いたらしい。取り壊しのときに、たまたま近くを通りかかった。
 
 店の後ろに、体育座りをしている男性がいる。歳は40くらいだろうか、当時の店主だった。両手を足に回して組み、何を見るわけでもなく前を見つめている。面識のない人なので、そのまま何も見なかったようにして自分は立ち去った。
 
 仮に面識があったところで、あのときのあの人に話しかけるのは難しかったと思う。「しょぼんとしている」とも「落ち込んでいる」とも違う。「打ちひしがれている」という雰囲気でもない。もっと別の何か。
 
 「たそがれる」とは、夕暮れを迎える他に「盛りを過ぎる」という意味も持つ。この動詞があの光景に、どこまで適切かは知らない。でもあのときは「たそがれている」という表現が、一番しっくり来るように見えた。
 
 もうひとつ思い出すのは、留学先だったドイツでの光景だ。ほぼ毎日、ソーセージ入りのパンを買っていた店がある。「店」と言ってもそこは屋台みたいな造りで、みな道を歩くついでにふらっと寄ってテイクアウトしていく。

 ちなみにドイツ語で「持ち帰り」は「ミットネーメン」と言う。「ツーム・ミットネーメン、ビッテ」と言えば「持ち帰りでお願いします」。覚えておくといつか使える、かもしれない。

 店主は大柄なおじさんで、髪の毛は真っ白だった。始めのうちは、私を見るたびに目を丸くして「また来た」「またまた来た」みたいな顔をしていた。アジア人学生は珍しくなかったが、一人で毎日店に来る、それも女子学生はやや異質だったらしい。
 
 ある日、大学が休みの日にぶらついていると、そのおじさんが店に立って、じっと外を眺めていた。歩いている人はほとんどいなくて、店の前に客もいない。夕方だった。おじさんは夕陽を受けて、両手をカウンターに突き、じっと前を見ている。
 
 なんとなく、見たことがバレないようにスッと道を変えた。おじさんが何を考えていたのか知らない。でもそれは、いつだったかの地元の光景、話しかけるのが憚られる、店主の体育座りをフラッシュバックさせた。
 
 たそがれるのが似合うのは、男の人だけなのかもしれない。たった2回の経験からこんなことを言うのはなんだが、女性がたそがれるのはいまだかつて見たことがない。経験がないと、言葉と結びつくこともない。
 
 ソーセージ入りのパンを売るおじさんは、家族経営で店をやっていたらしい。たまにおじさんのいない日があると、娘らしき女の子や、息子らしき男の子たちが働いている。女の子は仕事を覚えようと頑張っていて、ひょっとしたら当時の自分より若かった。
 
 パンにはソーセージのほか、みじん切りの玉ねぎもトッピングできる。この組み合わせがおいしいので
「ミット・ツヴィーベル(玉ねぎもつける)?」
 と言われたときには、必ずお願いしていた。娘さん(推定)は、頼んでも忘れることがままあり、そういうときはソーセージだけで食べた。向こうのパンは大きくてごついので、これだけでも十分、お昼ご飯になった。
 
 ドイツでの自分の食糧事情はまったくよくなくて、これ以外にはほとんど食の記憶がない。食の記憶はなくても、たそがれているおじさんだけはよく覚えている。どこでも黄昏は男性の姿をしているんだろうか、なんて思いつつ異国の町を散歩したことも。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。