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マリーの幸不幸

ここにマリーという女性がいる。マリーは色のない部屋に住んでいて外に出たことがない。マリーは赤について、青について、また黄色について説明することができる。どれの波長が長くてどれが短くて、緊急時に使われる色が何色で、どれが海や空の色か言うことができる。でもマリーは生まれてからこのかた、色を見たことがない。このときマリーは「色を知っている」と言えるだろうか?

この思考実験は「マリーの部屋」と呼ばれる。本当はもうちょっと複雑な文脈のある話なのだけれど、この「色を知っている」とはどういうことか?の問いかけが記憶に残って、そこだけ取り出してみた。赤とは何で、青って何だろう?それはどうしても、それらの色に触れたときの「あの感じ」と結びついていて、いくら言葉で綺麗に説明できたとしても、それはどこまでも本当の赤や青に届かない。

母が色彩の勉強をしていた時期があって、そのときにこんな話を聞かせてくれた。青系は寒色系、橙系は暖色系と呼ばれ、それぞれの色はそのイメージに相応しい場所に使われる。爽やかな雰囲気、冷たく冴えた雰囲気には寒色を、温かく柔らかな演出には暖色系を。そして目の見えない人でも、壁が真っ青な部屋では少し温度が低く感じられ、赤系統の壁の部屋ではやや温かく感じるものらしい。だから色は、目と関係しているばかりではない、と。

目の見えない人の世界に、色はないんだろうか。概念としての色があるだけなんだろうか。色が見えるって果たしていいことなのだろうか。色彩の感覚が人と違うと「色覚異常」と呼ばれるけれど、彼らにとって世界は、どんな色合いに見えているんだろう。

マリーが外に出て「赤」を本当に体験したとき、どんな気持ちになるんだろう。もちろんマリーは架空の人物だから、考えるだけナンセンスではある。正確に言えば、自分がマリーになったと仮定して、部屋の外に出て世界を見たとき、何を思うんだろう。「私が思っていた通りの世界だわ」だろうか、それとも「本当の色彩って『こういう感じ』なのね」だろうか。

仮に白黒の世界に生きていても、そこに「色」はあるんじゃないかと思う。だってテレビが白黒だった頃──あるいはまだカラーになってない昔の映画とか──それでもそこに鮮やかな色彩が見えたはずだ。怪獣が吐く「オレンジ色」の光、女優の首筋に光る「白光色の」真珠、兵隊が着ている「深緑」の軍服。モノクロの画面でも色は見える。正確には、感じ取ることができる。

このへんは「不思議だなあ」としか言いようがなくて、人の想像力はそうやって働くようになっているものらしい。だからマリーの部屋が白黒だったとして、初めて色のある世界に出たとしても、それはモノクロ画面がカラーになった程度の衝撃(でしかないの)かもしれない。白黒画面に色がついたからと言って、世界は大きく変わるわけじゃない。鮮やかにはなるけれど、だからって怪獣がヒヨコになるわけでもなく、色がつくということは色がつくということに過ぎない。

それは漫画の登場人物の台詞から「声」が聞こえたり、描かれた絵から「おいしそうな匂い」を感じ取るのに近い。はっきり描かれていなくても、本当は聞こえていなくても、想像力は知覚と簡単に結びついて、絵の中の爽やかな風や不穏な雰囲気、登場人物の震え声や勝利の歓声を聞き取ることができる。マリーもそういう世界にいるのかもしれない。知覚は制限されていても、だからこそリアルに想像力が働くような。それが不幸なことかと言われたら、別に不幸ではないような気がする。

それにしても「○○の××」っていうフレーズは多い。シュレーディンガーの猫とか、ヘンペルのカラスとか。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。