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どっちつかずで豊かなことで

 「天使の分け前」なる言葉がある。まだ誰も栓を開けていないのに、ワインやコニャックやウィスキーから蒸発して消えていくわずかな量。あれを指して言う。エンジェルズシェア、天使の分け前。
 
 それが単なる蒸発であることはわかっている。わかっていても「これは天使の取り分なんだ」と思うことはできる。ひとつの事象に対する、ふたつの説明を信じるのは少しも難しくない。矛盾もしない。
 
 ときどき、物事に一個の説明しか認めない人がいて、そういう人を見ると息苦しくなる。天使がウィスキー飲むわけないじゃん、ただの揮発でしょ、ちょっと感傷的すぎるんじゃないの。
 こういう人の気持ちはわかるし、説明がまちがっているわけでもないのだけれど、でもなんだか貧しいなと思う。一個の出来事に一個の意味しか認めないのは、単に感性が乏しいように思える。
 
 たとえば月はひとつの惑星で、いまのところ月面にウサギがいるという話は聞かない。それはそれとして、月で餅つきする兎の姿を思い描くことはできる。夜空を見上げてまん丸な光を見ながら、ほら兎が見えるよと言える。
 昔の人だって、本気で月兎を信じていたわけじゃないだろう。ただそう見えるね、おもしろいねと月を見上げていたんであって、こういうのってすごく豊かだ。世界がいくつもの相貌を持って見えること。ものの見方が一個に固まらないこと。
 
 てるてる坊主を作ったところで、明日が晴れると決まったわけじゃない。でもそれを作って祈るのは悪くない。科学的になんの効果もないとわかりながら、おまじないをするのはいい。
 こういう「わかってやっている」感じが好きだ。お酒が減ったのを、ただの蒸発だとわかっていながら「天使の分け前」と呼ぶような。兎なんていないと知っていて「兎が餅つきしてるね」と笑うような。
 
 一個の出来事に対して、異なるふたつの説明を同時に信じる。矛盾して見えるけれど、別におかしなことじゃなくて、みんなそうやって世界を見ながら生きている。
 誰かの形見を、ただの物だと思うと同時に、それでも何かが宿ると信じてる。うしろめたいことをした後に不遇に見舞われれば、それがただの偶然だとわかっていながら、同時に「バチが当たったんだ」と思ったりする。
 普段は信仰心なんてないように振る舞いながら、試験のときだけ神頼みすることだってできる。それが節操がないとか矛盾しているなんて、全然思わない。人間そういうものだ。いくつもの説明を同時に信じていて、いつでもそれを使い分けられる。
 
 誰かを生身の人間だと知りながら、それでも天使に見えることがあるとか。同じように、ただの人間なのに鬼や悪魔に見えたりとか。そんなの普通だ。人は人間であると同時に、天使であったり悪魔であったり、鬼だったり神だったりすることができる。
 「人間が神になれるわけないでしょ」は言うだけ野暮だ。「漫画の神さま」「小説の神さま」という物言いをする国で何を言うのか。最大限尊敬するクリエイターのことは、みんな神神言うものだ。
 二本足の人間なのは知っていて、天地創造なんてしてないのも知っていて、それでもその人はやっぱり「神」である。こんなことは十分に成立する。
 
 だから科学的な人間であると同時に、迷信や宗教を信じるのは別に不可能じゃない。ときどき「両者はきっぱり切り分けて考えねばならない」と潔癖になっている人を見ると、それ人間らしくないよ、と言いたくなる。両方信じたっていいよ、なにも矛盾してない。
 こういう態度はどっちつかずでよろしくないと言われがちだけど、これだと争いがなくていい。ダーウィンの進化論を受け入れながら、神が人間を作ったと信じてもいい。過激な潔癖は息苦しいのだ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。