赤ちゃんは、同時におばあちゃん

 生後5ヶ月ちょっと。生まれた人は「小さいほうの赤ちゃん」から「大きいほうの赤ちゃん」へと進化を遂げている。生まれたときには、細くサラサラだった髪も、最近はややコシのある、しっかりした質感に変わってきた。
 
 この頃になると人見知りが始まる。「ふだんから顔を見ている大人」と「そうでない大人」を峻別するようになり、後者に会うと泣く。このあいだは保育園の見学に行って、見慣れない保育士さんを前にわあわあと泣いていた。
 
(最近では「保母さん」という言い方はしなくて、みな「保育士さん」なのだ。この保育士はお母さん風情あふれる方だったので、つい「保母さん」と書きそうになる)
 
「順調に育っているっていう証拠ですよ」
 
 彼女は、親をなぐさめるように言う。
 
「いつも見ているお父さんお母さんと、知らない人とが区別ができるんですよ」
 
 言われてみれば、ちかごろ赤ちゃんの目の奥が「おっ、この人は知り合い」みたいな反応になっている。ようやく養育者として認知されたのか。以前はそこまで笑わなかったのが、両親を見てよく笑うようにもなった。
 
 人の成長っていうのは早いなあ。赤ちゃんを見ていると、これから送る人生が、その体の中に既にしまってあるように見える。
 
 夜、授乳をしているとき、赤ちゃんはスリーパーを着ている。それは祖母の着ていたどんぶくに似ていて、おっぱいを吸うべくほんのり背中を丸めたその様子は、小さなおばあちゃんに見える。
 
 赤ちゃんは既に、おばあちゃんへの道を歩んでいるのだ。わたしたちは、その一生を始めから体にしまって生まれてくる。いまの私の中にも既に、おばちゃんやおばあちゃんの片鱗が見えているだろう。見える人には、ずっと昔から見えていただろう。
 
 赤ちゃんは既に、小さいおばあちゃんである。生まれたときから老化は始まっていて、わたしたちはある日突然「おばあちゃん」になるわけではなく、赤ちゃん性とおばあちゃん性の比率が「99:1」であるか、「1:99」になるかの違いなのだ、たぶん。
 
 だから赤ちゃんは赤ちゃんでありながら、同時に何歳にも見える気がする。
 
 わたしたちはいつも連続的な存在で、ある日突然大人になったり、ある日突然老人になったりするわけじゃない。そんなブツ切りの変化を遂げることはない。
 
 子どもだと思っていたのに、気づくと「大人」の枠に入れられている。成人の日を迎えたからといって、レベルアップの音楽が鳴り変身したりはしないが、確実に歳は取る。気づくともう若くなくて、ゆるやかに中年が始まり、もう一段階おとなになっていく。
 
 晩年の祖母をおもいだす。もはや現役を引退して長く、大きな悩みごともない祖母は、とてもかわいらしくなっていた。子どものようにわがままに振舞い、子どものように些細なことでしょげる。
 
 おもえば祖母は、完璧に「おばあちゃん」になっていたのではなく、子どもの部分をまだ持っていたのだ。赤ちゃんのときからそれは連続していて、たぶん死ぬまで持っていたのだ。幼い子どもの頃の自分を、内包して生きていた。
 
 きっと人間はみんなそうなんだろう。赤ちゃんの中に既におばあちゃんが見えるみたいに、おばあちゃんの中にも赤ちゃんが見える。人は本当は連続した存在で、その時々で見える側面が違うだけ。そんな風におもえてくる。
 
 わたしもわたしのまま、おばあちゃんになっていくんだろうなあ。いや、いまが既に「若いおばあさん」だと言っても間違いじゃないんだよなあ。若いおばあさん。あるいは年老いた赤ちゃん。どっちでも別に間違いじゃない。
 
 そうやって、過去と未来を綱引きしながら生きていくんだ、みんな。人間っていうのはどこの一瞬を切り取っても、一生をその中に含んでいる。
 
 むかし高校の先生だった人が「10代のときのその人を見れば、どういう人生を送るかだいたいわかる」と言ってたっけ。なんかわかる。別に10代でなくても、過去や未来はある一瞬に刻まれていて、見える人にはよく見える。

この記事が参加している募集

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。