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一緒に食べよう

 「共食」というのは、読んで字の如く「共に食べる」であって、ひとりじゃなくてみんなで食事をする、そういう行為。いいことがいっぱいあるというので、農林水産省も勧めている。

農林水産省ホームページ「誰かと一緒に食べていますか?」

 子どもがいる家庭だったら、食事のマナーを身に着ける機会になる。成人なら、誰かと食卓を囲む回数が多いほうがストレスが緩和される。共食が多い人は、孤食(ひとりで食べる)人よりも、自分を健康だと感じているらしい……
 
 などなど、メリットはいっぱいある。ただ、こんなのひとり暮らしの人はどうしろって言うんだよ……とも思う。就職したてのころお世話になっていた独身の課長は、よく部下を誘って呑みに歩いていた。まだコロナの影が濃く、マスクも解禁されてなかったけど。
 
 呑みに歩くほどの仲間もいなくて、そもそもお酒を呑まない自分は、当時どうしていたっけ。部屋でひとりでする食事には慣れていたものの、それでも週末には喫茶店に寄っていた記憶がある。馴染みの喫茶店は、以前とは打って変わってガラガラだった。
 
 部屋でひとりで食事をするのはべつにいい。でもそれが、毎日毎食だと寂しくなる。だからどこかに出かけて行って、遠巻きにでもいいから「誰か」の存在を感じながら食べるほうがいい。
 
 当時そこまではっきり考えていたわけではないけど、完璧な自粛生活がどうしてもできなかった理由はそのへんにあると思う。出歩くことで感染リスクがあるのは知っていたけど、それよりも、ひとり静かに発狂していくリスクのほうが高かった。
 
 共食のメリットのひとつは、黙って発狂しないことにある。誰もこんなことは言わないし、農林水産省のHPにも書いてないけど、自分はそういうものだと思っている。
 
 今日の晩ごはんは、鶏モモ肉の照り焼きに、ホウレン草とエノキの味噌汁だった。旦那さんとの二人分を作りながら、ひとり暮らしのときはこんなことしなかったな、と以前の食卓をおもいだす。
 
 時には違うものも作ったけど、基本的には豚肉とキムチの炒めものだった。野菜も肉も摂れていいじゃんか、ということでよく作っていた。いつも同じ材料を使うのは効率がいい。買い忘れもないし、使い切れずに腐らせることもない。
 
 でも結局のところ、しょっちゅうのように炒めものを食べていたせいで、肌が油にやられて荒れた。同じものばかり食べるのも考えものだ。家に他の誰かがいると、なんとなく同じものばかりは出せなくて、自然と料理のレパートリーが増える。
 
 そういう意味でも共食はいい。自分だけなら身勝手な食生活も許される気がしてしまうけど、「誰か」が一緒だとそうはいかない。野菜を入れて肉も入れて、時には魚もないとバランスが悪いな、とか、いろいろ考えるようになる。
 
 そういえば、味噌汁を毎日つくるようになったのは結婚してからだ。とりあえずはなんでも入れればそれっぽくなる、日本の伝統食。味噌は肉でも魚でも包み込むので、困ったら味噌汁にする。あとはご飯(あと納豆とか)があれば食卓はなんとかなる。
 
 産休前まで一緒に働いていた上司は「いただいた野菜は、とりあえずコンソメでスープにする」と言っていたので、たぶんみんなそんな感じなんだと思う。よく作るのは、カブのコンソメミルクスープらしい。わかる。ミルクスープおいしいよね。
 
 時には使い切れない食材があるし、献立を考えるのが面倒なときもあるけど。栄養が偏るよりはそれでいいのかもしれない。作るのが嫌になった日には、冷凍食品に頼ってもいい。大事なのは誰かと食べることで、中身は二の次だ。
 
 むかしむかし聞いた話では、ひとりのときは鏡を見ながら食べるだけでも、ちょっと幸福度が増すらしい。共食が難しい人には、そういう手もあるんだとか。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。