迷惑かけずに死ねますよ

 身内に自殺者がいることのいいところは──いいところ、なんて言っていいのかはともかく──いつも選択肢に「死」が入っているところ。死にたいと思ったときに「まあでも、実際辛かったら死ねばいいんだよな……」と正気に返るところ。
 
 むかし大学の同期と安楽死について話していて、ひとりがこんなことを言った。
 
「安楽死を導入したら、社会にダイナミズムが生まれると思う。何があっても、最悪、安楽死すればいいと考える人が増えれば、無謀なチャレンジもやりやすくなる」
 
 この言葉通りではなかったけど、だいたいそんな内容だった。なるほどなあ、とそのときは思った。いまはもうちょっと別の視点から考えている。死にたいときに死ねるなら、いま死ぬ必要がなくなる、そういうことってある。
 
 最悪、死んじゃえばいいしな。そう考えることで力が抜ける時がある。力が抜けると楽になって、あまり思い詰めなくなる。死が軽いから生きていく気持ちになれる。
 
 今日は久しぶりに、自分がバラバラになる感覚に襲われた。自分のしていることに自信を失って、それでいいと言ってくれる誰かもいなくて、それじゃ駄目だと言ってもらえることもなくて、これでいいのかわからなくて足場を失う。
 
 頭の中で(死にたい)の声がして、でも同時にそれを打ち消すように(まあ最悪、死ねばいいんだからいいか……)が重なる。自殺という選択肢をどこかに予感しているからこそ、いまの悩みが大したものじゃなくなる。いまは死ぬほどのことじゃない。
 
 それにしても、出産しても希死念慮って出てくるんだな、と思う。前は、ひょっとして子どもを産んだら「この子のために生きる!死にたいなんて二度と思わない」みたいになるのかと考えていたけど、ならなかった。
 
 自分の母親は、と言えば、この人も死にたいときはあった。自分との大きな違いは、そこに子どもを巻き込むかどうか。母は娘を道連れにしようとしたことがあった。わたしはしないと思う。やるなら一人で黙ってやるだろう。
 
 仮に安楽死制度が導入されたとして、それはどんな運営になるんだろうな。きっと「これこれの条件を満たした人間は申請してよい」と条件付きになるだろう。たとえば、まだまだ働けるような若く健康な人間は、申請を却下されるはずだ。働け、と。
 
 となると、その「条件」は「それを満たした人は死んでも構わないと社会が判断した」基準になる。自分みたいにまだ出産可能で身体的に健康である場合、「もうちょっとお子さん産んで、閉経するまで働いてからにしましょうか」とか言われんのかな。「そうなってからなら、安楽死、申請できますよ~」。
 
 そんなお役所の光景が目に浮かぶようだ。グロテスク。その一言。年金もらうようになる前に死んでくれ、をソフトに言い換える人々。もしかしたら自分の同期がそれをやっているかもしれない。彼女は公務員になったから……。
 
 こういうことを考えるくらいだから、今日は気分が落ちているんだと思う。でも死んでない。生きて眠る以上は明日が来る。それでいいよ。母もわたしも娘も生きている。それで十分。
 
 明日が来るのが嫌だ嫌だと思いながら寝た夜もたくさんあったけれど、それをどうにか繰り返して生き延びれば、いつかは風景が変わる日が来る。問題は、そこまで持つかどうかだけど……。
 
 いつか「苦しいから」ではなく、穏やかに積極的に死を選びたくなったとき、自分はどうするだろう。なんとなく、だけど、制度としての安楽死は(あったとしても)使わずに、自力でやると思う。できるだけ人の迷惑にならないようなやり方で。
 
 だけど安楽死を導入する殺し文句は「人に迷惑がかかりません」かもしれないな。それを言われると揺らぐ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。