子どもは憎くてあたりまえ

 自分が母親にとって、最大に厄介な存在であることに気づいたのは、20歳になるか、ならないかの頃だった。なんでそう思ったのか、過程は覚えてない。ただあるとき「自分はある日突然、母親の人生に現れた人間なんだ」と気づいた。
 
 自分にとって母は、人生の始まりからあたりまえにいる存在だった。母にとって自分はそうじゃない。この非対称性に気づいて、思わず動きを止めた。そうして、ある日突然現れた自分は、身の回りのあらゆる世話を母に要求し、その手を煩わせた。
 
 子どもを産んでいなければ、キャリアを積めていた。母はむかし、自分にそう言ったことがある。でもキャリアを積んでいたら、子どもを産んで育てられなかった。当時の選択肢はひとつしかなかったのだと。
 
 罪悪感がないといえば嘘になる。子育てに割いた時間と体力があれば、母親の人生はもっと違っていただろう。少なくとも、いまみたいにロクに職歴のないおばさんにはなっていない。昔いたアパレルの現場で、いまでも華々しく働いていたかもしれない。
 
 だから、仮に母親がわたしに対して「うざい、うっとうしい、邪魔だ」という感情を持っていたとしても、別におかしくない。子どもなんて最初から手のかかる存在だし、泣いて喚いて当然のようにお世話を要求し、ありがとうなんて言わない、野蛮なものだ。
 
 世間では「子どもはかわいくてあたりまえ」と言うけど、自分は「子どもは憎くてあたりまえ」と、どこかで思っている。親の人生、削り取るんだもん。少しも憎まれないと思うほうが高慢じゃないですか。
 
 いま子育てしていて、子どもはまだ赤ちゃんなので手がかかるのだけど、「うっといな」と感じるときはある。今日は保育園関連の手続きをしていて、横で延々と奇声をあげられたので、久々に「うるさいな」と素で思った。
 
 よいお母さんなら「だめだめ、そんなこと考えちゃ」と自分で自分を律するのかもしれない。あるいは最初から「元気でかわいいわあ」としか感じないのかもしれない。自分はそのどちらでもないので「うるさいな」と思ったままやることをやる。
 
 子どもなんて思い通りにいかないし、憎くて当然。それくらいのスタンスでいるから、とりあえずは無事に子育てできている。別にかわいいと思えなくたって、子どもがちゃんと生きていればそれでいい。いつかはひとり立ちして、離れていく人なのだし。
 
 「そんな考えでアナタ、なんだって子どもを産み育てようと思ったの?」と言われたら、「そういうものだと思ってるから」だ。かわいい時々うっとうしい、それでもいたほうがなんかいい。それくらいのものじゃないですか、子どもって。
 
 最近はずっと「かわいいな」と感じていたのだけど、たまにこういう日もある。母親にもあっただろう。すみませんね、その節はご迷惑おかけしました。いつだったか、母親に本当にそう言うと「いえいえ」と、ビジネスシーンのような返事がかえってきた。
 
 父親にしろ母親にしろ、人生で一番幸せだった場面は、子どもといるときだと言う。同時に、親なんて割に合わない商売だ、これで一生独身だったら、もっと楽しく暮らせたかもわからんね、と冗談半分に言いもする。どっちも本音だろう。
 
 どちらか片方じゃない。両方ある。両方あって初めて親子だって気もする。
 
 親子っていつだってぐちゃぐちゃしていて、複雑な感情が絡まり合っている。私見だけど、母と娘、もしくは父と息子という同性同士の関係のほうが、異性同士より複雑に見える。
 
 自分なら、父が子育てにずいぶんなエネルギー(主に稼ぎ)を吸われたのを知っていても、父の犠牲に対して罪悪感は湧かない。お父さんはよく働いてくれた、うんありがとう、で終わる。なぜか母に対してだけ「すみません」と思っている。
 
 父親に憎まれていたら理不尽なのに、母に憎まれるのは仕方ない気がしている。これは、母体から血を吸って生まれた体験がそう思わせるのか、自分に特有の罪悪感なのか。もし後者だったら、ちょっと立ちどまって考えたほうがいいだろうなあ。
 
 なんでそこに罪悪感抱いちゃうのか。そのせいで子どもへの接し方が悪くなってないか。赤ちゃんの奇声から、そんな課題が見つかる日。今日は疲れた。

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メルシーベビー
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。