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何かが消えるときには

言語はいつ「消える」のか?日本語空間で生活している限り、そんなことが脳裏をかすめる機会はない。だけど実際世の中には消えそうな言語がたくさんあって、それを研究している人もいる。言語学者の書いた本を読んでいる。



現地嫌いなフィールド言語学者、かく語りき


その人によれば、ある言語の「消滅」は、そもそも定義が難しい。話者が1人もいなくなれば言葉が消えたことになるのか?それなら「話者じゃないけど聞けばわかるし、片言で話せる」人がいる段階はどうなのか?などなど疑問が山積し、いつどこを持って言語が「消えた」と判断するのか、そのラインはひどく曖昧だ。

マイナー言語を研究するその人はしかし、あることに気づく。
「諺がない……」。

普通なら、生活の中に溶け込んでいる伝統的な言い回しや比喩が存在する。「人を呪わば穴二つ」「勝って兜の緒を締めよ」「能ある鷹は爪を隠す」みたいな。これらの表現を使うときに、実際に穴を掘ったり兜を絞めたり、鷹の話をしている人はまずいない。そうではなく、喩えによって知恵を伝えるものである(当たり前すぎて言うだけ野暮だけど)。

著者は「ドマーキ語」という、話者が100人を切ったと考えられる言語に対してそう書いていた。諺らしきものを聞いたと思っても、それは他言語の表現をそのまま訳した感が否めず、オリジナルとは思えないらしい。確かにああいう教訓を含んだ比喩は、それを理解できるだけの背景──その文化圏の常識を共有できる人たちが互いにその表現を理解しあっている──がないとわからない。マイナー言語は、その機会が圧倒的に少ない。

言葉がわかっているだけでは駄目、という点で諺はレベルが高く、理解コストがかかる。消えゆく言語は、そういうコスト削減をまず始めるのかもしれない。お互いに無理な比喩を使わず、隠居するなら隠居すると率直に言い「キャベツを植えに行く(フランス語)」なんて回りくどい言い方はしない。裏を返せば、ややこしい比喩が通じるうちはその言語は安泰なのだろう。

諺なんてなくても困らない。「蓼食う虫も好き好き」と、マニアックな植物と虫をわざわざ召喚しなくたって「人によって好みはいろいろ」と言えば済む。「触手を伸ばす」とタコみたいにならずとも「欲しいものを得ようとする」で十分、伝わる。第一こういう言い方は誤解を招くことも多い。ある外国人が「あの人は顔の広い人だ」と言われて会いに行ったら、相手の顔の大きさは普通だった──という話を聞いたことがある。最初から「人間関係が幅広い」ならちゃんと通じたのに。

とはいえ「通じるだけ」の表現は貧しい。比喩の豊かさも、言葉遊びの余裕もない。無駄がないと効率はいいが、一方で無駄を許容するだけの余裕がないという、切り詰められた状況を暗示しもする。諺が通じなくなり、言語コストを節約し始める状況は、言葉にとって滅亡の前触れなのかもしれない。

無駄そのものに良いも悪いもないけれど、無駄が生まれないほど切羽詰まった状況とか、それを楽しむ土壌がないのは問題だと思う。言葉の話から少し離れると、何かの分野において厚みを出そうと思えば、数多くの失敗やミス、くだらない作品や実験がたくさん生まれるのを許容しないと進歩がない。どこの世界でもコスト削減は、滅亡の呼び水なんじゃないだろうか……。

言語学研究にもその波は寄せており、著者は本の中で「それが研究である限り、無駄な研究などないのだ。わかってくれ(p.125)」と書く。知識はただ知識であり、それをどう活かすかは受け手にかかっている。「役に立たない」ように見えることは、単に「自分にそれを役立たせる器量がない」だけかもしれない。そう考えると、安易に「無駄」なんて言えない。


本文とは関係ありませんが、東京のお伊勢さまと名高い「東京大神宮」。縁結びで有名です。パートナーシップからお仕事仲間まで、良縁に結ばれたい方に。


http://www.tokyodaijingu.or.jp/syoukai/index.html

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。