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"いつもニコニコ"へのモヤモヤ

 妊娠していると、「理想のお母さん像」について考えることがある。きっと自分が無意識のうちに、そこを目指してしまうだろうもの。でもたぶん達成できないもの。だって理想はあくまで理想だから。
 
 いつもニコニコしていて、なんかウェーブががったロングヘアをしていて、化粧はきつくなく見苦しくなく、ちょっとしたお菓子をパパッと手づくりできる……みたいな。着ているものは高くないけど清潔で、「生活感がにじんでない」という意味で「きれいな」人。
 
 そんなお母さんどこでも見たことないのに、なんでこれが理想として出力されるんだろうな。
 
 これの何がハードル高いって「いつもニコニコ」ってところだ。「人間、おもしろくもないのに笑えるかよ」と思っている自分にとって、常ににこやかでいるのはすごく難しい。
 
 昔からよその家に遊びに行ったり、保護者参観で別の家のお母さんを見たりしているけど、こんな人はいなかった。遊びに行く先のお母さんたちは、過干渉で心配性な人が多かった。おおらかに聖母のように微笑んでいる人なんて、まず見ない。
 
 保護者参観にいたお母さんたちは、派手なスカートの教育ママっぽい人がいたり、子どもベッタリな人がいたり、いろいろだった。物心ついてから、誰かのママを羨ましいと思ったことがない。自分の母親が最高だと、自然に信じていたのかもしれない。
 
 その母も、べつにいつもニコニコしているわけではなかった。不機嫌なときも当然多かったし、忙しいときは身なりに構わない人だった。それで、母親を見た同級生の女の子から「あれがお母さん?恥ずかしくない?!」と嗤われたときもあった。いや別に。
 
 そりゃあ家にいる人の機嫌はいいに越したことはない。とりわけ「お母さん」っていう存在は、家庭における影響力が大きい。不機嫌で賢く気が利くママより、多少間が抜けていようが、笑っているほうがいい。「間が抜けてる」の度合いにもよるけど。
 
 でもそれってどうなんだろう。「女は馬鹿でいいから、家にいてニコニコしてろよ」って言ってるのと同じなんじゃないか。それはそれで、ずいぶん女性蔑視なように見える。自分の中の理想の母親像は、差別の産物なのかなあ。
 
 この「いつもニコニコ」っていうフレーズ、自分の中ではモヤつきの種になっている。母親は「子どもに望んでいるのは、幸せでいてくれること。あなたが好きな人に囲まれて、いつもニコニコしてくれたらいいのよ」って言ってくれたことあるけど。
 
 逆にそれ以外は望まれていないんだろうか。笑わないで仕事をしている時間とか、真顔で文献に向き合っていた院生時代とか、あれはなんだったんだろうか。と、思わないでもない。
 
 母のみならず旦那さんもときどき言う。「家に帰ってきて奥さんがしんどそうな顔してると嫌。体調悪い日もあるんだろうけど、にこやかにしていてほしい」。そんなこと言われても、何も笑えるほどおもしろくないし、笑顔ってどこから湧いてくるんですかね。
 
 基本的に、ひとからの期待には応えたい。のだけれど、なんだろう、とりあえず口角だけは上げておくようにしましょうか?なに、ニコニコって。What’s NIKO-NIKO.
 
 育児中の人は「朝の時間のない、仕事と子どものことでワアアってなってるときに『完璧なママよりいつも笑顔のママが素敵』ってテレビが言っててもう無理」と言っていたり、なんかこのニコニコ信仰、みんなそれなりに悩まされてんのかな、と思うなど。
 
 笑顔を嫌っているわけではないけれど、それを半分、強制されることにはずっと抵抗がある。ずいぶん前にこんな話を書いたくらいだ。超短編で、前半がこれ。

ある人が言いました。
「私の国では、みんなが笑顔で、誰も他人の悪口を言いません。素晴らしいところです」
確かにその国では、みんなが笑っていました。笑わないと銃殺されるからです。
確かにその国では、みんな悪口を言いませんでした。言うと断頭台に送られるからです。
素敵な国でした。

https://note.com/mercibaby/n/n73c76c73347c?magazine_key=md4e6c03bf2c3


 幸福(に見えること)の強制は、不幸より悪い。そう思う自分でさえ、仮に無事に子どもが産まれたら、やっぱりいつも笑顔でいてほしいとか願いそうで、まあ難しいもんやなと思う。不機嫌でも銃殺されない今の環境に感謝しつつ。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。