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仕事ができる、わけでなくても

 物言いがキツいと損をする。というあたり前の話、社会人になってから気づいたきらいがある。
 
 前に現場勤務だったとき、とても仕事のできる女の人がいた。ヘルメットをかぶり、作業着に身を包み、きびきびと建設現場に向かっていく。頭の回転も速く、残業もきっちりこなしていた。
 
 彼女は施工管理、自分は事務だったのでそれほど接点はなかったけれど、とはいえ職場も、使っているチャットルームも同じなのだ。なんとなく、テキパキしていて「使える」人だから、他のメンバーともうまくやっているんだろう。そう思っていた。
 
 なるほど物事をはっきり言い過ぎるところはあった。チャットで他の人と話しているのを見ると、自分の権利というものをとにかくはっきり主張する。よく「一線を引く」と言うけれど、その線の引き方がすごく太くクッキリしている、そんな印象。
 
 たとえば現場では、自分の担当箇所がきちんと片付けられていなかった場合、休みの日でも来て直さないといけない。たくさんの人が作業する場所では、物がきれいに納められていないのは命取りなのだ。
 
 なにかしらの機械が盗まれて、行方がわからなくなってしまうこともあれば、単純に誰かがつまづいて転ぶこともある。建築中の建物の、剥き出しのコンクリートに体を打ち付けたらどうなるか。そんなわけで、現場の管理者は整頓を義務づけられていた。
 
 その日は彼女がお休みの日で、担当箇所が荒れているのを、ひとりのメンバーが見つけていた。様子を写した画像と共に、チャットに「整理できてない。今日は休みみたいだけど、これは片付けにくるよね?」という内容が流れてくる。
 
 彼女は「そこの担当は○○社です。彼らにやらせてください、今日来てるでしょう?私を休みの日に呼び出す意味がわからない」と返していた。休みの日はあくまでプライベートのために使う、彼女らしい返答だった。結局だれが片付けたかは知らない。
 
 自分は事務で、それほどテキパキしているわけでもなく、ただ真面目に仕事をするだけだった。電話を取り、必要があれば先輩たちに引き継いで、現場から「これ注文しといて」と言われれば発注する。定時になると帰る。
 
 そんなだから、こちらはなんとなく「仕事だけしてさっさと帰る奴って思われてるんだろうな……」と思っていた。好かれているか、いないかで言えば、たぶん後者。そんな風に思いつつ仕事をしていた。
 
 嬉しいことにそうでもなかったのは、現場を離れる直前にわかった。先輩たちが誕生日を祝ってくれたのだ。建築現場に出入りするには身分を証明する必要があり、一緒に働いている人の住所や年齢、生年月日くらいはデータからすぐにわかる。
 
 とある先輩がパソコンを見ながら「って、メルシーさん昨日が誕生日じゃないですか!」と声を上げる。あっハイ、そうなんです……と言うと、その場にいたみんなして祝ってくれた。さまざまなお菓子がデスクに貢がれてくる。
 
 わーい、と思っていると、同じ先輩が続けて「あの人も誕生日だったっぽいけど、まあアイツはいいや」と言う。アイツ、とは件の彼女のことだった。他のひとたちも同調して「あの人はいいや」と、女性がその場にいないのをいいことに好き勝手言う。
 
 そのとき他のメンバーが話したことを聞くと、彼女はいろんなところで衝突を起こし、もしくは不興を買っていたらしかった。言っていることはまちがっていないものの、物言いがキツい彼女は、正論を言うがゆえにむしろ疎まれていた。
 
 あんなに仕事ができる人なのに、と思う。言っていることはおかしくないのに、とも思う。ただ伝え方が厳しいせいで、周囲のパフォーマンスを落としてしまったり、機嫌を損ねたりてしまう。その点を課長も問題視していた。
 
 ひとり仕事ができてもね、結局まわりとうまくやれないとしょうがないのよ……。
 
 そのとき頂いたお菓子の中には、人気店のシュークリームなんかもあり、とてもおいしかった。同時に「わたしも伝え方には気をつけよう……」という、ビターな教訓も残った。ひとり仕事ができてもね、周囲の能力下げてるようじゃしょうがないのよ──。
 
 「仕事ができる」の中には、いろんなことが含まれていて、ほかの誰かを活躍させることだって、立派に能力のひとつなのだ。
 
 自分だけバリバリ目立てばいいってもんでもない。たいていの仕事はチームプレーで、黙って縁の下の力持ちをやることにも十分、価値がある。それなら自分にもチャンスはあるのかな、なんて思いつつ現場を離れた。そんなことを思い出す。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。