世界で唯一のコンセプトを持つシェアハウスをつくった

 私と友人たちがシェアハウスを始めたのは、2010年頃だったと思う。
 シェアハウスというものが日本で知られるようになったのは、phaさんが作ったギークハウスがメディアに登場するようになってからではないかと思う。それがおそらく2009年頃だったように思うから、ちょうどシェアハウスという言葉が世に知られはじめていた時期であった。

 シェアハウスを始めた理由はごく単純で、なんだか面白そうだったからである。
 そして家賃が安く済むから。東京で1人暮らしをするのは家賃が高くつく。けれどシェアハウスに住んだら家賃を安く済ませることができる。
 といっても、人見知りにとっては、既にできているコミュニティの中に入っていくことはハードルが高い。なので、もともと何年も付き合いのある友人たちと新しく始めることにした。

 メンバーの通勤の都合から、場所は北千住にした。北千住というのは、東京の下町の風情が残っている街で、昔ながらの小さい不動産屋が点在している。そういう不動産屋をまわると、他に情報が出ない地元の物件情報が手に入ることがわかった。
 2階に個室が3部屋あり、1階にキッチンとリビングとお風呂があって、小さい屋根裏部屋と駐車場もついている。それで家賃が月10万円という1軒屋を、そういった不動産屋で見つけた。その物件を借りることにした。
 休日にリビングにやってくる友人も合わせて、4人で住むことになった。
光熱費もあわせて家賃は月に1人4万円である。
 この家、お風呂がなかなか豪華で、湯舟は脚が伸ばせるだけの広さがあり白くてキレイである。自動お湯張り機能と追い焚き機能がついており、お湯が溜まると女性の声で教えてくれる。1人暮らしであったら月4万円でこのレベルのお風呂がある部屋には住めないだろう。
 ただこの家、1階の床が水平ではなかった。玄関のドアを開けて外から廊下を眺めると、明らかに斜めになっている。ビー玉を転がすまでもない傾き具合で、廊下を歩いていると平衡感覚がおかしくなってクラッとめまいがした。

 この家を「大喜利(おおぎり)ハウス」と名付けることにした。
 大喜利っていうのはあれです、TV番組の「笑点」でやっている、司会の人が回答者にお題を投げかけて、それに対して面白いことを答えられた回答者が座布団がもらえる、あれです。
 私と友人たちは学生時代に落語研究会に所属していたのですが、定期的に寄席を開いており、その寄席の最後にいつも大喜利をやっていたのです。

 大喜利ハウスと名付けので、大喜利ハウスの家訓を定めた。
[家訓その1:目の前に起きたことを大喜利のお題とすること]
例え家が火事になって燃えていたとしても、それを“大喜利のお題”とみなして、1つぐらいは面白いことをすること。

[家訓その2: 大喜利の回答は「行動」で示すこと]
「家が火事になった。どこに電話する?」
このお題に回答できるのは、本当に家が火事になったときだけ。言葉でボケるのは普通すぎるので、行動で回答しましょう。

[家訓その3:「回答」にお金と時間を使うこと]
シェアハウスに住むことによって生活費が削減されたので、その分、「面白い回答」にお金と時間を使うこと。

 住人から徴収された家賃のうち、余った分は「面白費」として貯められた。なにか面白いことをするために使うお金である。
 大喜利ハウスのリビングにはエアコンも扇風機も無かったので、夏になり、何か冷房機器を購入しようという話になった。「リビングに冷房機器が無いので暑い。さあ、どうする?」という大喜利のお題が投げかけられたのである。家訓に従い、そこは、「(面白費から)業務用扇風機を購入する」という行動で回答してみた。
 業務用扇風機は、プロペラの大きさが一般の家庭用扇風機の3倍くらいあった。業務用扇風機をリビングに置き、スイッチを入れた途端、壁に掛けてあったカレンダーが吹っ飛んだ。慌てて扇風機のスイッチを切りに行こうとするのだが、風が強過ぎてなかなか扇風機に近づけない。ドリフで台風コントというのがある。強風の中を、風に向かって歩いていく人が、傘を飛ばされコートを飛ばされ最後は体ごと飛ばされるというコントである。リビングにいながら台風コントが出来るなんで、さすが大喜利ハウスと名付けられた家である。
 結局、業務用扇風機はそのままでは使えないので、倒してちゃぶ台の下に入れられた。ちゃぶ台の天板の裏側に風を向けて、天板の裏側に当たることによって勢力の弱まった風が、ちゃぶ台の下から出てくる。こたつは冬に暖をとるためにその周りにみんなが座る物であるが、大喜利ハウスでは、夏に冷をとるためにみんながちゃぶ台の周りに座っていた。

 大喜利ハウスと名付けてから、よくAくんが遊びに来てくれるようになった。Aくんは大学のサークルの後輩なのだが、超大物芸人の孫なのだ。
 お笑いの才能というのは遺伝するものなのだろうか。Aくんは数あるアマチュアの大喜利の大会に出場しては、ことごとくその大会で優勝し、アマチュア大喜利界に名を轟かせている人物だったのである。
 そう、アマチュア大喜利の世界というのがあるのである。Aくんが来てくれるまでは、大喜利ハウスの住人もあまり知らなかった。アマチュアの大喜利プレイヤーという人たちがこの世界にはけっこうな数いるもので、大会もいくつも開かれているのであった。

 Aくんに教えてもらい、大喜利ハウスの住人も精力的に大喜利の大会に参加するようになった。大会の中にはチームで参加するものもあったので、大喜利ハウスのロゴとユニフォームも作った。
 もともと、シェアハウスの名前を「大喜利ハウス」としたのは、ただなんとなくであった。住人達も、これといった目的意識もなく、なんとなく大喜利をやってきた人間たちであった。
 それなのに、住んでいる家の名前を大喜利ハウスと名付けた途端、住人が大喜利の大会に出場するようになってしまったのだ。
 ただ荒川沿いを走ることを趣味としていただけの人間が、もしゼッケンを付けられたら、東京マラソンに参加してしまうようになるのであろうか。そして、東京マラソンに出場してしまうと、さらにタイムを縮めたくなってしまうものなのだろうか。

 大喜利ハウスは“大喜利特化型住宅”の色を強めていった。
 まず、「大喜利特訓階段」を作った。1階から2階に上る階段の足の踏み場に、A4の用紙に書かれた「あ」からはじまる50音の平仮名をばらばらに配置した。足で踏んだ平仮名を繋ぎ合わせて、面白い単語をつくりましょう、というものである。ただ階段を上るときでさえも、大喜利の特訓を欠かさないのだ。
 「大喜利専用Ustreamスタジオ」も作った。専用スタジオといっても、屋根裏の小部屋をそう名付けただけである。4畳半くらいの広さで、天井が低いので膝立ちで移動しなくてはならないような部屋である。その当時、Ustreamという、個人がPCやスマートフォンから動画を配信出来るサービスが流行っていた。大喜利ハウスの住人も、よくこのUstreamを利用して大喜利をしている様子を配信していた。
 大喜利をするときには、お答えをスケッチブックなどの紙に書くので、何らかのお答えだったのであろう、珍文奇文が書き殴られた紙が溜まっていくのである。その紙を、屋根裏部屋の壁いっぱいに貼り付けた。『ビューティフル・マインド』という映画がある。精神病を患った主人公が、部屋の壁いっぱいに数式などを書き殴った紙を貼り付けているシーンがあるのだが、この映画を例に出すまでもなく、大喜利専用Ustreamスタジオは、ある種の精神病を患っている人の部屋っぽくなってしまった。壁一面が「犯人はクワガタ」「市原悦子には決して屈しない」などとよくわからない文言が書かれた紙で覆いつくされており、精神病の人とはまた違ったベクトルのどうかしている感を出していた。
 この「大喜利専用Ustreamスタジオ」を作ったことを、ホームページやtwitterに投稿すると、「大喜利専用のUstreamスタジオがあるなんて!」「そこで大喜利をやってみたい」という反応がいくつかあった。ただの屋根裏部屋なのに。そのなかには、Twitter大喜利というものを主催していてTwitter界では有名な人や、吉本の脚本家のコースを修了したという人などがいて、大喜利専用Ustreamスタジオにやって来てくれて住人と大喜利をした。
 ただの屋根裏部屋であった場所に、名前を付けることによって、そういった人たちに出会うことが出来たのだ。

 大喜利ハウスを始めたことで学んだことがある。
 1つは、名前を付けられたら人はその気になって活動してしまうということである。もう1つは、出会いたい人たちがいるならば、そういう人たちが集まるような場を作ったらよいということである。
 大喜利ハウスは、おそらくは後にも先にもこの世で唯一の大喜利特化型住宅であると思われるが、その後、コンセプト型シェアハウスというものは増えたように思う。漫画家になりたい人たちのためのシェアハウス、ダイエットを目的とする人たちのシェアハウス、家にいながら国際交流ができるシェアハウスなどなど。そういったコンセプトシェアハウスに住むことの利点はたしかにあるのかもなと、大喜利ハウスに住んだ経験から思う。

 そして、大喜利ハウスはというと、この後、フィリピンのセブ島に移転するのである…。

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