キラキラしたサークルをくぐり抜け、宗教の勧誘を後にしたら入れる、サークルに入っていた話。


 大学に入学したら落語研究会に入ろうと思っていた。
 落語のことはよく知らない。
 中学生や高校生だった頃、深夜ラジオをよく聴いていた。お笑い芸人さんなどがDJをしていて、リスナーから送られてくる笑えるハガキが読まれるような番組が好きであった。眠りに落ちるまでの間、ベッドの中でラジオを聴きながらクスクスと笑うのは、1日の中でも楽しみなひとときであった。
そういった世界が好きな人たちが集まるサークル、それが落語研究会なのではないか。何故そう思ったのかは自分でもわからないのだが、根拠なくそう確信していた。

 私は無事に大学に入学することができ、入学式の後には、新歓祭というイベントがあった。
 大学会館の周りに、各サークルの先輩たちが集まっており、式を終えて出てくる新入生を待ち構えているのである。
 私は入学式で両隣に座っていた女の子2人から、一緒に新歓祭をまわろうと言われて、3人でまわることとなった。
 私以外の2人は、ラクロスのサークルやテニスのサークル、ラグビー部のマネージャーなどという、キラキラした世界に興味があるようであり、そういったサークルの話を聴いていた。私は深夜にラジオを聴いて1人でクスクスと笑っているような闇属性の種族である。キラキラとした光属性のサークルは眩し過ぎて目が潰れそうであった。キラキラの先輩たちに揉まれながら、落語研究会を探していたのだが、見当たらなかった。
 そもそも私は社会不安障害(極度の対人恐怖症)があるので、ついさっき初めて会ったばかりの2人と連れ立って歩くということは、辛いことであった。その2人とは自然とはぐれてしまい、私は人のいない方、いない方へと、流れていった。
 新歓祭の中心から離れて人がまばらになった地帯に行きつき、1人で一息ついていると、キラキラしさの弱い2人組が私に話しかけてきた。
 「少年法の厳罰化についてどう思いますか?」いまはもうおぼえていないが、何だかそういう社会問題についての意見を求められた。
 新興宗教の勧誘だ。
 キラキラした世界には馴染めない人間が行きつく場として宗教サークルがあるのか。
 私は「はあ、罪だけ重くしても根本的な解決にはならないと思いますが」とか何とかてきとうに答え、宗教の2人は「そうだよねー」と言ってにこにこしていた。私は社会問題についても宗教についても興味が持てなかったのだが、目に眩い集団の中にいるよりは、この2人と話している方が楽であった。
 そんなことをしていると、宗教勧誘の2人の間から、赤い法被を着ている人の姿が見えた。法被には「落語研究会」と書かれている。私はすぐさま赤い法被の人に近寄った。
 赤い法被を着ている人は、宗教の人たちよりもさらにキラキラしさが薄かった。
私が近づくと、赤い法被の人は私に、政治家の写真がプリントされたトレーディングカードを渡してくれた。
 そのカードをもらった私は、「ああ、私の憧れていた落語研究会は、私がイメージしていた通りだった!」と思った。
 赤い法被を着ているキラキラしさの薄い人は、落語研究会の会長であったのだが、この会長は、私が好んで聴いていた深夜ラジオ番組の大ファンで、番組でハガキを読まれた人にプレゼントしていたオリジナルカードに着想を得て、“自民党トレーディングカード”なる物を作っていたのである。私は勝手に落語研究会というものは深夜ラジオの延長線上にあるようのものだろうと思い込んでいたのだから、その深夜ラジオの影響を受けて作られたトレーディングカードを見て、「落語研究会は私が思っていたようなサークルだった」と思ったわけである。運命的であった。その後、私は落語研究会に入会するのだが、落語研究会にはこの会長以外にも深夜ラジオが好きな人たちが多かった。
 ちなみに、なんで会長が配っていたものが“自民党トレーディングカード”なのかというと、この会長は小渕首相(当時の首相)のファンサイトを運営していたのである。naikaku.com(内閣ドットコム)というドメインを所持しており、たまに何か勘違いをした人から首相宛てのメールが送られてくるらしい。そのメールに会長は「こんにちは、首相です。」と返信していた。
 どうして会長が新歓祭の中心から離れたところで勧誘活動をしていたかというと、「落語研究会に入るような人間は、新歓祭の盛り上がりには馴染めず、1人で帰ろうとするだろう」という予想のもと、中心から離れた地点で待機していたのである。私の行動は落語研究会の読み通りであったのである。
 キラキラした集団には馴染めない、けれど宗教にも興味がない。そういう人間が辿り着くところが、落語研究会なのだった。

 こうして、大学入学前からの夢が叶い、私は落語研究会に入会することとなった。
 落語研究会の会員になると、高座名(こうざめい)という、落語家としての名前をもらうことになる。自分で自分の名前を付けられるのではなく、先輩たちにてきとうにつけられてしまう。
 先ずは、どの亭号に所属するのかを決められるのであるが、亭号というのは名字のようなものである。高座名が「三遊亭円朝」であれば、「三遊亭」の部分が亭号である。プロの落語家さんの世界でも、「古今亭」とか「柳家」とか「鈴々舎」といった様々な亭号がある。
 私の入った落語研究会にも大まかに分けて5つくらいの亭号があった。私の亭号は「筑波亭」になった。筑波大学落語研究会なので、筑波亭である。いちばん由緒ある亭号である。
こういうタイプの人はこの亭号に入る、という亭号毎の色のようなものがあるのだが、筑波亭は、“これといった特徴の無い人”が入る亭号らしい。
 私は一般社会では浮いてしまう人間であるのだが、落語研究会の他の女子会員は、夏がくるたびに坊主頭にする女子や、酔っ払うと男子会員の眼鏡を割ってまわる女子など、エキセントリックな人が多かったので、その中にあっては、私はこれといった特徴の無い女子なのであった。
 高座名が決まると、その下の個別の名前が付けられる。落語家さんには、亭号毎に名前にこの漢字が入る、というものがある。例えば、立川談志の弟子であれば、「志の輔」「志らく」のように、「志」という漢字が入ったりする。
私の入った筑波亭では、名前に「仏」という漢字が入ることになっていた。仏、といえばフランス。フランスといえばメルシー。ということで、私の高座名は「筑波亭メルシー」となった。「筑波亭南仏蘭西(プロヴァンス)」という案もあったのだが、南仏蘭西だと画数が多いので、メルシーで良かったのではないかと思う。その後、私は筑波亭メルシーを名乗って人前で落語をやることになるのだが、落語会にやって来てくれたお客さんから「このメルシーって人は日本人なの?」と訊かれることが多かった。なんだかフィリピンパブの源氏名みたいだな、ということを自分では気にはしていた。
 ところで私が落語研究会に入会した翌年に、私に弟子というものが出来た。弟子といってもただ単に学年が1つ下であるというだけなのだが、この弟子の高座名は「筑波亭イヴォンヌ」という。金髪美女を連想してしまう名前なのだが、イヴォンヌ本人は浅黒くてインドネシア人風の容貌をした日本男子であった。本人は和風な漢字の高座名を希望していたのだが、メルシーの弟子ということでイヴォンヌになってしまった。なんだか申し訳ない。
 このように、高座名はおバカな大学生たちが考えたものなので、たいてい駄洒落などで付けられる。下ネタが多い。他の会員の高座名を紹介すると、
 香車亭紫陽花(やりていしようか)
  「ヤりてぇ!」「しようか?」和姦である。
 返還亭青春(かえしていせいしゅん)
        この名前を付けられた人は、なんだかほんとうに「俺の青春を返してくれ」と言いそうな人であった。
 麗久舎駐車違反(れいきゅうしゃちゅうしゃいはん)
        霊柩車が駐車違反で捕まってたら面白いよね、と。
などというものがあった。
 
 こうして私は筑波亭メルシーとなり、落語研究会ライフが始まった。
入会してしばらくした頃、大学の授業が終わって、構内にある池のほとりを通って帰ろうとしたら、池の前の芝生の上でたむろしている人たちが見えた。
 その中の1人が私のことを「おーい、メルシー」と呼んだ。池のほとりにいたのは落語研究会の先輩たちであった。
近づいてみると、先輩たちの足元から紐がのびている。その紐を目で辿ると、棒を支えにしてカゴがたけかけてあり、紐は棒に結ばれている。カゴの下には米が撒かれている。
 雀を捕まえるやつだ!
   漫画とかで見たことがあるやつ!
 先輩の1人が木片にねじがささった道具を持っており、ねじを回してキュッキュキュッキュと音を鳴らしていた。これは鳥が寄って来る音だという。どこまで本気なのかわからない。
 ザルの下に撒かれた米の中には玄米が混じっていて、米を持ってきた先輩が「うちは玄米を混ぜてるんだよ~」と変に生活感を出していた。
 そのうちに私も芝生の上に座ってキュッキュキュッキュと鳴らすようになった。
 どうして先輩たちがそんなことをしていたのかは知らないが、おそらくは暇だったのであろう(授業には出なくていいのか?)。
 雀はちっとも捕まえられなかったのだが、授業が終わって池のほとりを通って帰ろうとする会員が、その度に捕獲されていった。
 そんな感じでその日は落語研究会の人たちと一緒に過ごし、夜になり、開学記念館の屋根にのぼった。私の行っていた大学には、開学記念館という和風建築物があり、落語研究会のメンバーは休日の昼間にそこに集まり、落語の稽古をしていた。
 みんなでよく開学記念館の瓦屋根の上にのぼった。大学に守衛さんに見つかると叱られるので、見つからないようにこっそりとのぼった。
 その日は満月だった。月明りで白く光る瓦屋根に座って、みんなで酒を呑みながら月を見た。
 なんだか青春ぽかった。(残念ながらそのとき返還亭青春さんはいなかったけれど。)
 私が入学式で会った女の子達は、いま頃、ラクロスのボールを追いかけたり、ラグビー部員と恋愛をしたりしているのだろうか。宗教の人たちは社会問題を考え続けているのだろうか。
 私は、私には、雀を捕まえる罠を仕掛けた後に瓦屋根の上で月を見る青春でよかったな、と思った。

 そんな感じで落語研究会の人たちとはよく遊んでいた。
 バケツいっぱいにスライムを作ったり(大学の周辺に数軒あるドラッグストアに陳列されていた洗濯のりを全て買い占めた)、バケツいっぱいのプリンを作ったりして(ひっくり返したら自重で潰れた)遊んでいた。私が入会する以前の先輩たちは、大学を走っているバスのバス停を1つずつズラすといういたずらをしたことがあるらしい。日本で1番キャンパスが広い大学であったので(その当時)、構内をバスが巡回しているのである。バス停なのだからちょっとさそっとでは動かないように重しが付けられているわけで、よくやったなと思う。もっと落語の研究をすればよかったのに、それはあまりしなかった。
 会員はみんな、他のコミュニティには適応できない人たちばかりなので、会員同士の仲はよかった。
 お互いを高座名で呼び合うので、いきなりニックネームで呼び合っている感じなわけで、あたかも仲が良いかのような空気になる。
 会員が住んでいるアパートの部屋の合鍵の隠し場所を把握しており、勝手に部屋に上がり込んでいた。部屋に置いてあるチョコパイを無断で食べていたら、他の会員もやって来て、一緒にすき焼きを作って食べたり、なんてことをしていた。
 そういう自他の境界が薄い関係性だった。敢えて自他の境界を薄くしていたところもあったと思う。ある会員が「落研て家族みたいだな」と呟いたことがあるが、そういうところはあったと思う。
 私の通っていた大学は、地元民の学生がほんとうに少なく、みんな大学の周辺にあるアパートで一人暮らしをしていた。
 初めて実家を離れて一人暮らしをする学生たちにとって、家族のような機能を落語研究会は担っていたところがあるように思う。自他の境界が薄い関係は日本人らしいべったりさがあって、排他的なところもあった。なのでそれは良かれ悪しかれであったのだが、実家を離れて社会に出ていくための移行期間の受け皿としては機能していたように思う。

 その後、大学を卒業して、社会に出て。私が落語研究会に入ってから20年近く経った。会員たちとの関係はいまも続いており、たまに会うことがある。

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