見出し画像

「言い尽くせない」って愛だ。ー『こちらあみ子』を読んで思ったこと

『こちらあみ子』という小説は今村夏子さんの処女作です。
今村さんはこの作品で第26回太宰治賞、第24回三島由紀夫賞受賞され、
『あひる』『星の子』を経て2019年には芥川賞を受賞されています。

元々は『あたらしい娘』というタイトルで刊行されていたようですね。
この原題も、とっても気になる。

でもそれ以上にこの小説の置きどころのない読後感に置きどころを見つけるため、
今回は奇をてらわず(もっとも奇をてらうほどの悪賢さはない訳ですけど)、
本作の主人公であるあみ子としっかり向き合ってみたいのです。

※小説の内容にも言及するので、ネタバレが嫌いな方は先に原作をお読みください。

ストーリーはあみ子の目線を通して展開します。
現在(プロローグ)→過去の回想(本編)→現在(エピローグ)の構成で、
本編にあたる回想パートはあみ子小学校低学年〜中学卒業までのエピソードになっています。

で、このプロローグを読んでるときは全然気付かないんだけれども
本編を読み進めていくとあみ子の置かれている環境や、あみ子と周りの人との関係性が、
目かくしが外されるように明らかになっていく。

※この感じが堪らなくよくて、
むしろ本作の魅力の本分はおそらく小説の技術的な部分なのですが、
今の私はそれを語るための知識ら言葉を持たないので、また後日の機会に。

あみ子の存在をあえて一言で表すなら
「はみ出し者」。
家庭でも学校でもこれでもかというくらい、鼻を摘まれ疎まれます。

本人は思いのままに動いているので全く自覚していないのだけど、行動や言動の一つひとつが周りの人には異質にうつる。
場合によって嫌悪感や抵抗感を感じさせてしまう。

その最たる例が、のり君への告白です。

のり君は、あみ子が小学生の頃母が開いていた習字教室に通っていた同い年の男の子。その頃からずっとあみ子の想い人です。
でものり君自身はそのことを疎ましく思っているのか、あみ子がその場にいると極端に口数が少なくなったり、あみ子が近くにいると走って逃げたりします。


そんなのり君の態度をあみ子がどう思っているかは全く描かれません。
「あみ子はのり君が好き」、それ以外はあみ子の考えの外なのです。


中学3年生。卒業してのり君と離れ離れになる時が近づいてきたある日、
あみ子は保健室でたまたまのり君と2人きりになり自分の想いをのり君にぶつけます。

「好きじゃ」
「殺す」
「のり君好きじゃ」
「殺す」は、全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力をもつのはあみ子の言葉だけだった。あみ子の言葉がのり君をうち、同じようにあみ子の言葉だけがあみ子をうった。好きじゃ、と叫ぶ度に、あみ子のこころは容赦なく砕けた。

のり君が「殺す」と言うほど激昂してるのは
あみ子を迷惑に思っている上、輪をかけて不快に感じる出来事が直前にあるのですが
引用しきれないので、割愛。

このように、あみ子がまっすぐでいればいるほど、相手とのズレは深い溝になり、修復不可能な断絶になっていってしまいます。
そしてそのことで、あみ子はしっかりと傷ついている。
本人に悪気はないのにね。でもだからこそ、直しようがない。

この理不尽なあみ子の「らしさ」を一言で言い表すのは、とても難しいことだと思います。

「わがまま」
「純粋、ピュア」
「無邪気」

どう言っても捉えきれない感じがするし
ましてや「知恵遅れ」「知的障害」で片付けてしまうのはあまりに乱暴な読み方に思えます。

私が読んでいて思ったのは、
あみ子は、相手に自分の言葉がどう受け取られるか、自分という存在がどう映っているかに気がまわらないくらい、
自分のことで、本当に、一杯一杯なんだろうということ。

その性質が祟って、
告白した男の子に「殺す」と言われる以外にも、
あみ子は自分の立場をどんどん危うく悲惨な状態にしていきます。

母はうつで家事の一切を放棄します。
兄はグレて不良になります。
父はあみ子を家から追い出そうとします。
学校にいっても友達はいません。
むしろ靴を隠されて裸足で廊下を歩いていたりします。

なんて悲劇的、と思うでしょ?
ドッコイ、こんなにも悲惨な状態なのに文章からこの悲惨さは滲み出てこず、むしろ淡々としているんです。

淡々と、痛い。

これは、周りの目に鈍感でいつだって独自解釈で突き進むあみ子の視点で、話が進行していくことに依るのでしょう。

だからこそ、いくつかの出来事を経てこんな一文が出てきたとき、はっとしてしまいます。

だけどもう決めたのだ。あみ子は知ることにした。

なんとあみ子は小学生から想い続けていたのり君の苗字を中学卒業の直前まで知りません。

それをクラスメートの男子に聞くシーンにある「あみ子は知ることにした。」という一文に、
この小説の希望があるという気がしてならないのです。

知ろうとすることは、
今まで自分の内部で独りよがりに完結していた世界から
コミュニケーションを通じて他者と関係を築いていくことに繋がります。

クラスメートの男子との会話は続き、男子はあみ子がのり君を懲りずに追いかけ続けたことを、
「気持ち悪かった」と言いながらもあっぱれあっぱれとあみ子の肩を叩きます。

そして、あみ子は聞くのです。

「どこが気持ち悪かったかね。」
(中略)
笑っていた坊主頭の顔面が、ふいに固く引き締まった。それであみ子は自分の真剣が、向かい合う相手にちゃんと伝わったことを知った。あらためて、目をみて言った。
「教えてほしい」
坊主頭はあみ子から目をそらさなかった。少しの沈黙のあと、ようやく「そりゃ」と口を開いた。そして固く引き締まったままの顔で、こう続けた。「そりゃ、おれだけのひみつじゃ」

ここ、本当に素敵なところで
たぶんこの作品で初めて、あみ子と誰かのコミュニケーションが成立するんです。
そしてこのように続きます。

引き締まっているのに目だけ泳いだ。だからあみ子は言葉をさがした。その目に向かってなんでもよかった。やさしくしたいと強く思った。強く思うと悲しくなった。そして言葉は見つからなかった。あみ子はなにも言えなかった。

あみ子の反応は、自分勝手に叫んだのり君への告白とは対象的です。

本当に相手のことを思うと、
適切な言葉なんて、実はなかなか見つからないのかもしれない。

そして同時に、
(全く記事内には書ききれていないのですが)作品内でここまでに何度か登場する
「黙っておく」という行為が
一つのコミュニケーションとして意味を持ち、違った見え方になってくる。

思いやりに溢れた、優しくて、切ないシーン。


今村さんはあみ子の視点を借りることで、
名前の付けられない、けどこの世界にたしかに存在する「はみ出す」という事象を
言葉を紡いでありありと立ち上げてしまわれました。

それこそがこの小説の意義で、
解のようなもの(どこが気持ち悪かったのか?)はあえて語られません。

「言葉」は
いくつもの言葉にならない思念の上に成り立つもの。
そこから何を読み解くかは読者の想像力に委ねられているのだと思います。

2020.5.2



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?