書評『インヴェンション・オブ・サウンド』 チャック・パラニューク著/池田真紀子訳

 疫病に戦争。明日にでも終末を迎えそうなわたしたちの世界を、最後のひと突きで崩落させるのは、あるいは、人間が腹の底から発するたった一つの悲鳴かもしれない——何かの比喩かと思われるかもしれませんが、あに図らんや。邦訳は十八年ぶりとなるチャック・パラニュークの新作『インヴェンション・オブ・サウンド』(池田真紀子訳)で、悲鳴という名の音は「物理的」に世界を破壊します。

 舞台はハリウッド。音響技士として働く三十代の女性ミッツィは、特に「悲鳴」のクリエイションに定評があり、年若いながらも莫大な金を稼いでいます。まるで自分を罰するかのように、睡眠薬を飲むそばから酒を飲み、ろくでもない男を取っかえひっかえして付き合うミッツィ。どうやら悲鳴づくりは、父親から受け継いだ忌まわしい家業のようなのです。

 もうひとりの主役フォスターは、十七年前、七歳の娘が行方不明になり、以来、娘が児童売春組織に連れ去られたのではないかと、日夜ダークウェブを徘徊し、手がかりを血眼で探す中年男性。そこで見かけた虐待男と些細な特徴が似ているからといって空港で少女連れの男性に突進する。若い女性に金を払って成長した娘を演じてもらい、思い通りにならなければ彼女に銃を向ける。全身に溜め込まれた怒りがちょんと針で刺されただけでいつでも爆発しかねない人物です。

 第一章終盤で、ミッツィとフォスターを結ぶ糸の真実が最悪なかたちで明かされてから、パラニュークの筆致はさらに疾走感を増します。ギリギリな精神状態で生きてきた二人がついに出逢い、そのケミストリーがあっと驚く規模のカタストロフを引き起こす。ある一定の周波数で発せられた悲鳴という音が、近くのものと「共振」をはじめ、物理的に周囲に力を振るうのです。この原理を使って物語をありえない次元に展開させるパラニュークに、ここまで来たら観念して身を委ねるほかなくなります。

 けれど、ただ派手なだけの作品ではありません。たしかに暴力的なシーンは多い。多いというより、それしかない。なのに、時間差で伝わってくるのは、その背後にひそむ悲しみです。読後数日を経て、評者は何気ない瞬間にふと、自分を罰しつづけた本当は臆病者のミッツィの姿が脳裏に甦り、胸が詰まりました。これぞパラニューク節の真骨頂なのでしょう。

 音響効果が映画に果たす力について、さまざまな蘊蓄が語られるのも興味深いところです。映画作りの現場には悲鳴の音源というものがあり、それには名前まで付いていて、何百本もの映画に使い回されてきたとのこと。動画サイトで簡単に聴ける有名な悲鳴を視聴すると、その「音」は、単体では意外なほどの滑稽さがありました。これくらいの軽みのある音でなければ、人間の精神は恐怖に耐えられないものかと思ったものです。閾値を超えた音が脳髄を射貫いたとき、人体には、そして世界には、想像するよりも危険なことが起こるのかもしれません。
 
想定媒体:新聞
二十字六十四行(一一九九文字)

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豊﨑由美さんを講師にお迎えしている「翻訳者のための書評講座」第4回に参加しました。
今回の課題作は『インヴェンション・オブ・サウンド』。

普段読まないジャンルの作品で、その内容から、常体で硬めにばちっと書きたくなるところでしたが、あえて敬体で書くことを自分に課しました。
同じ試みをされた他のみなさんの書評を拝見して、自分の書評には「軽み」や「面白み」が足りなくて、ただ丁寧になっているだけだったなぁと反省。

それから、執筆中に仕入れた、最近公開された映画と音に関する小ネタをどうしても入れたくなってしまい、それに余計な字数を使って全体がぼやけるという失態も犯しました(上の書評からは削っています)。
自己満足のために書いてはならぬというのを頭にたたき込みたいと思います。

課題提出時にはタイトルを入れてはいけないということも、今回ご指摘を受けました。もともとはタイトルは編集者が付けるもので、執筆者が、伝えたいことを本文ではなくタイトルを使って「誘導」するという「楽」をしてはいけないというお教えに、深く感じ入りました。

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