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アンチテーゼ~書きたいから書くこと

 書かずにいられない何かがあって、それはなぜそうなのかといえば、伝えたいことがあるからなのだろうか。
 或いはもっと内向きに残したいから、記録とし、体験の整理、思考のまとめなのであろうか。
 つまるところ、書きたいのだから書いているといってしまえば、それらを網羅できる。
 自己認証欲求である場合もあるし、ほぼ無意識な自己筆記による潜在意識の現われの場合もある。
 書きたいことを書いているからといって、言いたいことを全部さらけ出すわけでもないし、誰かのためになるかもしれないと思ってもそれを信用しきっているわけでもない。

 書きたいから『書けること』を誰かに読まれる前提で書いている、或いは書ける人が、こうしたnoteのような場に文字を連ねる。そしてそこには読みたい人が集まり、取捨選択をする。ときにはそこに批判を、そして賛同をして、一種のコミュニケーションめいたこと、或いは現実というリアルの中で実際に対面して言葉を交わすまでになることもある。

 言葉は万能ではない。しかし言葉を尽くさずにいることには違和感を覚えるし、乱暴な言いようをしている様子を見るのはどうしようもなく不快になる。不快になるくらいなら、そこから離れて視界に入れないようにすればいい。だから時々、貝のように口を閉じる。そしてまた吐き出すのである。

 なぜ書くのかといえば、生き物が呼吸をし食べ物を摂取したときと同じように、二酸化炭素を吐き出し、排泄するのである。何かを入れたら、何かを出す。

 その機能をより潤滑にするために、誰かに伝えたいという使命感や何かを訴え状況を変えたいという模索をしながら精神的な理由づけ、行動原理といった『書き続けるための作法』を身につけたとき、『書きたいから書く』という所作が、誰から見ても説得力、納得性を得られる佇まいになるのかもしれない。

 僕はまだ、そこには至らず、目指すこともおそらくしていない。僕の『書きたいから書く』というのは、誰かの言葉ではないが、どこか『よこしまな』動機を含んでいる。或いはそう思うことで、この楽な場所に留まろうとしている。

 しかしながら特に話の中身に関心もないのに「なぜあなたはこういうものを書くのですか?」と尋ねてくる、或いはもっと威圧的に「だったらそれを書くだけではなく実践すればいい」などと迫ってくるような相手に対しては、圧倒的に有効であることで多様しているのも事実。

 人がやることにいちいち説明責任もなければ、誰に対しても公正公平である必要もない。話は聞いて欲しい人に聞いてもらえればいいし、読んでもらいたい人、読みたい人に読んでもらった上であれば、いくらでも種証をしよう。

 あるラジオ番組で、インタビュー嫌いの映画監督に限って、実は話したいことが一杯ある。しかし、インタビュワーがまるで話が通じないことがたびたびあるので、一律応じないようにする。

 スポーツ選手でも同じで、試合のこと、プレイのことならまだしも何の関係もないプライベートな質問にはうんざりするのだろうし、芸能という職業に関してはその線引きは時代とともにひとつの社会的な関心ごとにもなる。

 専門分野で名をはせる人というのは、つまるところやりたいようにやって専門家の中でも突出するのだろうし、そこまでやり遂げた専門的な知識や思考方法について、簡単な言葉のやり取りなどでは語りつくせないのは自明の理。ゆえに『書きたいから書く』『歌いたいから歌う』『作りたいから作る』になるのだろう。

 だいたい『物書き』という人種は他人の行動原理を洞察する能力には長けていても、自己分析は苦手な人のほうが多いのではないだろうか。自分の行動原理や衝動、欲動というものを恐れたり、疑ったり、ときに誇ったりすること、そして他者と比較して優越したり、劣等感にさえなまれたり、あこがれたりしながら大体はもがいているのであって、なぜ書きたいことがあとを絶たないのかという理由を知りたがっているのは、当の本人であり、他人にそれを聞かれることに不快感を持つことも、ある意味自然なのかもしれない。

 あなはたなぜ書き続けるのですか?

 そう聞かれた、今一番正解だなと思うのは
「世の中がクソだから」

 二番は
「世界は素晴らしいから」

 でも、まぁ、おそらく自分に一番相応しいのは
「それは僕がクソったれのくせに、食べることをやめないから」

「書きたいから書く」はもういらないと言えるまでは、まだまだ書き続ける。
 それにしても牡蠣はうまい。生でも、蒸しても、揚げても。そんなふうに私はなりたいのか。


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