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アンチテーゼ~幸せの時間なんていらない

『幸せの時間』(しあわせのじかん)は、国友やすゆきによる日本の漫画。双葉社の漫画雑誌『漫画アクション』で1997年から2001年に連載された。続編にあたる『新・幸せの時間』(しん・しあわせのじかん)は『漫画アクション』で2005年から2014年まで連載された。本項目では、この続編についても述べる。
2012年に田中美奈子主演によるテレビドラマが東海テレビ制作昼の帯ドラマ枠にて放送されたが、社会問題となった。(wikiより)

 その昔流行ったマンガで、当時ゲームの開発会社に勤めていたんですけどね。まぁ、このマンガが話題と言うか、毎週、主人公の浅倉がえらいことになっていくのをげらげら笑いながら回し読みをしていました。

 念願のマイホームを手に入れたエリートサラリーマンの主人公・浅倉達彦。愛する妻・智子と2人の子供に囲まれ、幸福の絶頂にいた。だがある雨の日に、智子が運転する車で高村燿子を轢いた事故をきっかけに家族崩壊が始まる。達彦は燿子と不倫関係に陥り、横領も発覚する。自分の家族こそが理想の家族と信じていた長男・良介は高校を中退し、バンドメンバーの奈津と同棲する。クールで大人びた高校生の長女・香織は達彦の同僚・矢崎修との秘密の関係に発展する。そして智子もまた、再会した柳との関係に溺れていく。浅倉家に幸せは戻るのか??(wikiより)

 一見幸せそうな家族が、ある事件をきっかけにどんどんおかしな方向に向かって行って家庭崩壊していくってお話で、なんというか人の不幸は蜜の味ってやつですかね。

 さて、なにもいまさらその物語についてうんぬん語ろうなんて話ではないんですか、みなさん。幸せって何でしょうね?

 幸せってぽんず醤油があることって、大御所のお笑い芸人がテレビのCMで歌っていましたが(これも古い話で恐縮です)、どういうわけだかここ数日、そんな話が話題になることが多くて、僕も幸せについて考えましたよ。

 いや、”考えさせられた”ですかね。

 僕の持論としては”幸せになろうとしなければ、幸せにはならないし、それをしないことは罪なこと”って考えています。

”成ろうとして成れるのであればそんな簡単なことはない、それができないからみんな苦労しているのだし、簡単に手に入る物じゃないんだよ”なんておしかりを受けるかもしれませんが、いや、実際にそう言うものだとは思いますよ。

 でもだからこそ、幸せになろうとする努力を怠るってことは、究極的には社会全体に悪循環を与えることになる――すなわち罪なことだと僕は思うのです。

 とあるバーで女性とこんな会話をしました。

「わたし、みんなから幸せそう、幸せそう、うらやましいとか言われるのが本当にイヤ」
「そりゃA子さんは、みんなから見ればいい旦那に、子供たちも元気でいつも週末は家族で出かけていて、健康的だし、周りがそう思うのもわかるけどね」

「でも、そういうのっていいところばかり見ているだけでしょう?」
「それもわかるよ。A子さんはそのためにいろいろ頑張っているのは知っているし、幸せなんてそれなりの努力なしにはなれないもの」

「そう! そうなのよ。わたしだって結構がんばっているのよ!」

 彼女は実際の年齢よりもずっと若く見えるし、活発で健康的、器量も良くて仕事もできる。子供たちをすごくかわいがっているし、旦那さんと仲良く歩いているところもよく見かける。

 しかし彼女は自分の健康や美容を維持するために、食事や運動や十分な睡眠をとるとか、自己管理を徹底していて幸せになるための努力を怠ったりはしない。それを良く知る(いや、これは語弊があるか、よくわかっているかしらね)僕としては、それゆえに彼女の不満もわかる。

 だから彼女は自分のことを羨ましがっている人が、そのくせ自己管理もできてなければ、為すべきことを棚上げして口先だけ”いいな、いいな”と言っていることが、どうにも許せないのだと思う。僕も実は同じように感じることがあって――

 たとえばこうして文章を書く、物語を書く、ラジオドラマの脚本をやったとか、バンド活動していて、楽器があれこれさわれて、曲が書けて、レコーディングができて、家族がいて、飲みに歩いていて・・・みたいなことを「僕には才能がないから」とか「歌をうまくうたえないから」とか「ひとりで店に入るのはできない」とか、できない理由を懐に忍ばせておいて「いいな、羨ましいな」って言う人には、ちょっと抵抗がある。

 また、彼女とは別の時に”幸せってなんだろう”なんて話もした。彼女は「人それぞれよね」としながらも、何か基準になるようなものがあるのだろうかしらと考えていたけれど、僕は前述の言葉―幸せってなるものでなく、なろうとすることそのもので、幸せって常に現在から未来にかけてあるんじゃないかな――と話したらすごく納得していた。

 幸せを定義したがる人って、結局自分の幸福感と他人の幸福そうに見える様子をずっと気にしていて、僕はそういう人はなかなか幸せを実感出来なのだろうと思うし、つまるところマンガのようなこと『幸せの時間』的なことに陥りやすいって思うんですよね。

 さて、ここからが本題(もうこのパターンいい加減やめれい!)

 その彼女がいるときに関西弁の抜けない関東在住の中年サラリーマンが僕を怒らせました。
 彼は彼女のことがよほど気にいったらしく、ありていに言えば俺の愛人になれと迫り、彼女に家族があることを知ったうえで、「僕も結婚している、でも、子供はいない、羨ましい、もうカミさんとはずっとしてない、一度俺と・・・」などと形で言えば口説いているのですが、僕からすれば脅迫に近いやりとりがありまして、ところどころ話を挟んで矛先を変えようとしたんですが、まぁ、とまりません。

 ここでデジャブ―。僕は何年か前に同じようなシチュエーションというか、僕の友達に失礼を言った男性に「あんたみっともないよ!」と罵声を浴びせてしまい、その反論が「お前、奥さんとうまく行っていないからこんなところに飲みにきてるんだろう」なんて言われたものだから、まぁ、キレちゃいまして・・・

 その人、その店に旦那のいる女性をちょいちょい連れてきて飲んでいたんですけどね。僕も彼女とはよくこの店で一緒になることがあり、その旦那さんも含めて同じテーブルで飲んだこともしばしばある中ですから。そんな彼に「俺の女に手を出すな」って勢いで店のマスターに「お前がしっかりしていないからいけないんだ」みたいなことを言うものだから「あんたみっともないよ」になったわけなんですが・・・やり過ぎました。

 これ、後日談があって、気分を悪くした彼が店を出て行き、他の店で飲みなおしたところ、実はまったく同じことが起きて、その人本当に「俺の女に手を出すな」って言ってしまったらしく、また、その相手が事情をよく知るひとだったので思いっきり反論されたそうな・・・

 今となっては笑い話のこの経験がぎりぎり僕を踏みとどまらせました。

 関西弁が抜けない彼は、ひつこく手を変え品を変え、言葉巧みとはまるで真逆のああいえば、こうもいうみたいな、誰が聴いても論理破綻している不作法な話術で彼女に迫ります。僕はいちいちその話の腰を折り、とうとう根を上げて彼は帰路につくのですが、その間に僕がドラムをやっていることを知ると、自分もやっていた、ジャズが好きだとこっちに話をあわせてドラムを教えろと言ってきました。

 いや、僕はジャズはやらないし、なんなら僕が良く行く楽器店ならドラムを教えているからそこに尋ねてみてはどうかと言うと、彼女のメモを出せと命令し、僕にその店の名前を書かせました。

 彼が帰ったあと、そのメモはテーブルに置かれたままだったことは言うまでもありませんが(笑)

 彼はサラリーマンでもがんばれば年収がどれだけになるとか、それで愛人を囲っている奴はいくらでもいるとか、女はみんな嘘つきだとか、俺にだけなんでやらせてくれないんだとか、まぁ、本当に周りも呆れていましたが、彼女は失礼のないようにかわしていましたが、流石に限度というものも。

 さて、僕は何について怒っていたのか――同じ男として恥ずかしいって思い、「あんた、みっともないよ!」って言葉がもう、本当に出る寸前でした。彼が出て行ったあと、みんなため息。

 僕は「女性にああいう態度を取る奴は本当に苦手・・・というかキライ」とこぼすと、みんな大声で笑いました。笑ってすませて、本当によかった。やっと”幸せな時間”を取り戻せた僕は、楽しくお酒を頂いて帰りました。

 彼はいったい、どんなことを幸せだと思っているのでしょうね。

 ああ、みっともない

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