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定義することの大切さ

日曜日、うちのスタジオの福祉事業開設に向けての準備を手伝いに、かつて3歳から10数年指導した古い教え子が手伝いに来てくれました。

そのまま阿久比支部の教室へついて来ることになりましたが、どういうわけか昨日の阿久比支部はなかなかに不甲斐なく。
彼の前でお叱りを入れる時間が多かったわけでして。

先日の投稿にも少し書きましたが、私の教室で2008年開設当初から一貫して変わらないモットーは、「太鼓だけ上手くなるな」です。きちんと定義してから、もうじき15年になろうとしています。

正直これまでに出会った方の中に、太鼓だけが上手いと言わざるを得ない方がおられますが、そのたびに「私が育てるメンバーはこういったかたちにしたくないなぁ」と感じていました。

では、太鼓以外に何を向上させたら良いのか。
答えはシンプルです。「教室外でも当たり前に求められることはできるようにしていこう」という話。
返事、挨拶、思いやり、誰かを助ける・手伝う、教えてもらったことは次へ教える、他者の意見や個性を尊重する、などなど。

ところが、この当たり前のことをなぜ大切なのかちゃんと言語化して伝えることができる指導者になかなか出会えない気がします。

太鼓の教室じゃなくても、なんなら幼稚園くらいの時から言われているはずのことです。
太鼓がなかなか上手くなれなくても叱りませんが(私のせいでもあるので)、太鼓と関係なくても幼稚園の時から知っているはずのわかりやすいことほど厳しく指導しています。

例えば、なぜ返事をしないといけないのか。

子供たちに聞くと、かなりの割合で「返事はしないといけないから」と答えます。私は「それってほぼ理由ないのと同じじゃない???」

私にも生涯の中でなぜ返事をしないといけないのか、わかりやすく諭してくれた方はいないように思います。
幼稚園の時くらいは恐らく母に、「返事せぇへんかったら話してる方がイヤやんか…」まぁ間違ってはいないわけですが、ちょっとこれでは説明が弱い。

私の教え方は、
「あなたの話をちゃんと聞いています!ってはっきり伝える方法が返事することしかないからだよ!」と伝えています。
これは私の定義した言い方です。何か本を読んだわけでも、人からこの言い方を教わったからでもありません。でもそう思いませんか?

・目を見て話を聞いてくれていても、何も喋ってくれないと「聞いてくれてるのかな?」って不安になるでしょ。
・ちなみに、返事は「はい」っていうことだけではないよ。「聞こえませんでした」とか、「わかりませんでした」とか、「僕には難しいです」とかも全部返事にしていいんだよ!
・それを許さない大人もいるのかもしれないけど、うちの教室では「わからない」って言っても叱られないんだよ。
・どんな言い方でもちゃんと返事したら、相手の「悲しい」をあなたが減らしてあげられるんだよ!

このプロセスで話してあげるとほとんどの子が返事をちゃんと考えるようになります。中には、これまでを振り返って反省したのか、涙を浮かべる子すらいます。
求められてしなくてはいけなかったと知らず知らず定義されていた「返事」が、彼らの中で「ちゃんと返事したい!」に変わります。

当たり前だと思っていたことも、自分の経験から理解していることで定義し直すと、言葉の力が強化されて、自信を持って伝えることができるようになるんじゃないでしょうか。

太鼓の練習の合間に、みんなで向かい合って、たまにきちんとこういう時間を取ること。20分くらい練習が止まることはありますが、うちの教室はそれでもよしとしています。

人や言葉や稽古を大切にできるようになれば、必ず良い関わり方で時間を過ごすことができるようになります。
それさえあれば、ペースはともかく必ず自分の力で向上できるようになるし、太鼓以外の活動でもその人を支える地力になり、愛される人になるのではないかと信じています。

少し長文になってしまいました。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。

いつもあなたの心のそばに、
メンターじゅんいちでした。

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