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アドラーは本当にトラウマを否定するのか?

『嫌われる勇気』読書会3回目のテーマは「トラウマは存在しない」であった。後半部分の録画ボタンを押し忘れたので、動画の代わりにそこで話題にしていたことをここに簡単にまとめておく。

トラウマを必要以上に注目しない

まずは本文中の

「トラウマは存在しない」

という言葉について。

アドラー本人が実際に「トラウマは存在しない」と言ったのかどうかはわからない。もし仮に言ったとしてもそれはまだPTSDという概念が精神医学の世界できちんと固まってくる前の時代、フロイトが初めて「トラウマ」という概念を提出したころの話であって、PTSDそのものの実在を全否定したというわけではないだろう。

『嫌われる勇気』という本はアドラー心理学を簡単に紹介するパンフレットのような本であり、目を引くキャッチーな言葉をちりばめておく意図があったのではないかと考えている。実際、爆発的に売れたわけでもあるし。

だから、今現在においては

「『トラウマ(PTSD)』を必要以上に注目しない」

ぐらいに捉えておくのがいい塩梅なのではないかと思う。

トラウマ理解と行動の対応

なぜアドラー心理学ではトラウマに必要以上に注目しようとしないのか?

具体例を挙げて考えてみよう。

たとえば、ある人が小学生のころひどいイジメにあい、それ以来、対人恐怖症が表われた。そのときのひどいイジメがトラウマとなったわけだ。ここでのトラウマというのは必ずしも精神医学におけるPTSDそのものでなくてもよいだろう。過去に強く傷ついたりショックを受けたりすることがあり、それが現在の行動に何らかの影響を及ぼしていればいい。

この状況においてトラウマというものをどう考えることができるか?

『嫌われる勇気』の本文中では、目的論と原因論という枠組みで提示されている。

過去のいじめ体験を「トラウマ」という形で注目、重視するのが原因論、注目、重視しないのが目的論である。

さらに、今回、私はもう一つの軸を導入しておきたい。

「自分には何ができるのか?」と能動的な側面に注目し、「どうやったら少しでも目的に近づいていけるのか?」と問題解決を目指す方針と、それに対して、「このトラウマはだれのせいなのか?」と被害・加害関係に注目し、「トラウマがあるから今の自分は思ったように行動できない」と受動的な態度を取ってその場にとどまり続ける方針だ。

これを図示すると下のようになる。

図1

『嫌われる勇気』読書会

アドラー心理学は主体的努力モードを推奨する

アドラー心理学では図の③主体的努力モードを推奨していると考えていい。

「自分の目的は何か?」
「どんなことを望んでいるのか?」
「目的に近づくにはどのような具体的な手段があるのか?」
「数多くある手段の中で自分でもやれるものは何か?」
「この状況で自分で変えられるもの、動かせるものは何か?」

そういったことを考えて、目的に少しでも近づけるようにやれることをやるのである。そのために、トラウマに対して過剰には注目しない

アドラー存命の時代にPTSD概念は存在しなかった

そこで、注意しておきたいのはアルフレッド・アドラーが生きていた時代には現代の精神医学におけるトラウマ的概念「PTSD」はなかったということだ。

フロイトが「トラウマ」という言葉を初めて持ち出しただけである。なんだかよくわからないけれども、過去の体験が今をダメにし続けている、という感じだったのだ。それもトラウマ概念の創案者フロイト自らがすぐに「トラウマというのは実際に会ったことではなくて患者のファンタジーであった」とその見方を変えてしまった。

だが、現在はPTSDが解離、フラッシュバック、過覚醒といった、生活を困難にする症状を伴うことは認められており、持続エクスポージャー法などPTSD治療の方法も開発されつつある。

能動フレーム・問題解決フレームに注目する

図2

『嫌われる勇気』読書会 2

そういったPTSD概念の発展なども踏まえたうえで、アドラーの考えをもう少し現代にマッチした形で理解するならば、

「目的論」対「原因論」

という軸に注目するより、

「問題解決フレーム」「能動フレーム」対「被害・加害フレーム」「受動フレーム」

という軸に注目する方がいいだろう。

アドラーの目的論とは問題解決に向けて能動的に行動を起こすような考え方に主眼があった。トラウマを否定すること自体が第一の目的ではない。

この軸の存在を仮定すると、トラウマに注目するにしても①トラウマ解消モード②トラウマ停滞モードが考えられる。

『嫌われる勇気』読書会 3

トラウマを治療、解消できるものと考えたうえで、積極的にトラウマ治療に取り組むのが①トラウマ解消モード。

トラウマがあるから望む方向へと進むことができず、すべてはトラウマを与えた加害者のせいである。加害者がその責任を取るべきで、そうでない限り自分は救われない。これが②トラウマ停滞モードとなる。

アドラーが現代に生きていたとするならば、「トラウマの解消をしなくてもやれることはどんどんと③主体的努力モードでやっていく。一方で①トラウマ解消モードでトラウマ治療も積極的に行う」と述べるんじゃないかと思う。

アドラーが問題視していたのは③主体的努力モードの対極にある②トラウマ停滞モードである。このポジションに入ってしまうと、人は主体的に生きることができなくなる。トラウマという悲劇に振り回されるだけであり、自分でコントロールして変えられることは何もない。そんな人間観・世界観をアドラーは否定したいのではないだろうか。

※補足

④受動攻撃モードについては図表を作った結果、この枠が生まれ一応どのようなものかを想像して埋めておいたが、今回は直接話題に関係しないので説明は省略する。

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