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死の恐怖と精神腫瘍科。死を見つめて生きるということ。

恐怖の感情は、死と結びついている。どんな小さな恐怖も、それが死につながることを直感して、人は恐れおののく。(参考:【書評】暴力を知らせる直感の力 ──悲劇を回避する15の知恵 ギャヴィン・ディー・ベッカー

私は、幼少期からとんでもない怖がりなのだが、実は生存欲求が強いのだと思う。ただ死にたくないという気持ちが強いのかもしれない。ここ数年の病気不安障害のような症状は、本当にひどかった。延々とガンの可能性について考えてしまったり、闘病のことを考えたりして、気分が滅入った。

親しかった友人数名が、消化器系のがんで亡くなったり、闘病を最後まで支えたことは直接的な引き金になっている。身近で、どんどん弱っていく友人を目にしているのは、本当につらかった。そして、それを自分事としてとらえた時に、ブルブルするほど怖かったのだ。

精神腫瘍科と死の恐怖

まだ何の病気にも羅漢していない、今、こんな風になるのであれば、いざ余命宣告されたらどうなるのだろう。そんな風に思っていて、手に取った一冊から学べることがあったので、今日はそれを紹介してみたい。

精神科の一ジャンルに「精神腫瘍科」がある。これは、ガンの闘病をメンタル面からサポートする精神科だ。ガン告知後の混乱した心情から、看取りの直前まで、精神腫瘍科は患者に寄り添い続ける。精神腫瘍科医の清水氏が出会った7人のエピソードを中心に、死の恐怖に向かい合ったときに、どのように人はそれと対面できるかが取り上げられる。

死の恐怖の内訳

一度も死んだことがないのに、死が怖いのはなぜだろう。死が怖い理由は、突き詰めると3つしかないと清水氏は言う。

死の恐怖は大きく次の三つに集約することができます。①死に至るまでの過程に対する恐怖、②自分がいなくなることによって生じる現実的な問題、③自分が消滅するという恐怖

3つの恐怖をひとつずつ考えていくと、実は、死がそれほど恐ろしいものではなくなることに気づく。清水氏は患者と対話しながら、そのことに気づけるように助けていく。柔らかく、時に直接的に。

「人間というものは、正体がわからないと負の想像力を働かせ、その怖さを際限ないものとしてしまうところがあります。具体的に理解することで、少なくとも負の想像力は働かず、安心することができます」

ガンの苦痛は薬物療法で相当に和らげることができる。親族の一人が、昨年亡くなったが、早い段階から苦痛を緩和する治療を受けた。ガンが分かった時から、緩和ケアを受けていたのだ。その選択を見て、そして最後まで苦痛のない死を見たのは、少し安心できることだった。なんだか矛盾しているけど、死ぬのは嫌じゃないけど、苦しいのは嫌だみたいなのはあるから。

自分がいなくなった後の準備は切ないとしても、ひとつひとつ行える。友人のお父さんはガンが再発して、自分の命の限度が分かった時に、家族のための準備を始めて、それから数十年先の家族の経済状況をしっかり守れるという確信のもとに亡くなった。家族も安心していたし、そのお父さんも安らかな表情をしていたのを思い出す。

問題は、3の自分が消滅する恐怖だ。これは、なかなかなくならない。最終的には、恐怖の根源を探ると、自分自身が消えてなくなること、いったい自分の人生は何だったのだろうかというブラックホールのような疑問に飲み込まれることが怖くてしょうがないのかもしれない。

「物語」を書き換える

清水氏が面談をした一人の男性は、誇り高き蕎麦職人だった。しかし、ガンになり余命宣告されてからは「生きる屍」というセルフイメージになってしまった。もはや、死を待つだけの人になってしまったのだ。

しかし、清水氏は、その人が、自分の人生の物語を書き換えられるように、粘り強く対話をし続ける。そして、最終的にその蕎麦職人は、自分の人生を「息子を見守る父親」というラストシーンに置き換えることができたのだ。(子供に蕎麦職人を継がせるという意味で)

「一つの出来事に圧倒されて、視野が狭くなっているときは、「生い立ちから現在に至るまでの歴史を物語ることを勧めます」と清水先生は言う。」

「「言葉が世界を創る」というのは、一つの真実である。 厳しい出来事の後に視野が狭くなってしまっているときこそ、自分では気づいていない部分にきちんと光を当て、その人の正当な物語を紡ぎだすための、温かい聞き手の存在は大きい。」

丁寧に、自分の物語を紡いでいく時に、人はすべてに意味があったことを感じ取るようになっていく。もちろん、ガンで逝くのはつらいのだけれど、それ以上に、意味のある人生を送ってきたという自覚が人を強める。清水氏は「レジリエンス外来」で、その人の物語を丁寧に聞き続けている。

この話を読んで、私は「ラストシーン」にとらわれすぎている自分に気づいた。まるで、それはラストシーンが「死」で終わる以上、すべての映画は駄作だと言っているようなものだ。(実際、ガンであろうが、そうでなかろうが、すべての人のラストシーンは死なのだ)。映画で一番大事なのはラストの数分だけではない。

死を見つめて生きる

最初は、取り乱したり、パニックになったり、苦しんでいる患者も、やがて落ち着いていく。驚くべきことに、人は恐怖に慣れていくのだという。死の恐怖も例外ではない。大事なのは、誰にでも訪れる死を真正面から見据えて、それでも、どうやって意味のある人生を送ろうとするかだ。

清水氏は具体的に、4つの質問を投げかけることが、今の自分の人生を深く考えるカギだと述べている。

1:がんになるまでは自分はなにを大切にして生きてきたのか
2:がんになることで、なにを失ったと感じているのか
3:今、なにを恐れている
4:なにが残っていて、なにを得たのか

ガンは決して好ましいものではない。その診断を聞いて衝撃を受けない人はいない。しかし、「死を意識することで、人生を深く考える」ようになることで、人は、再び生きることの満足感を感じるようになる。

ガンになってもならなくても、人は死ぬ。同年代の友人は、最近、いきなり自動車事故で死んだ。心の準備がある時もあれば、まったくない時もある。それが現実だ。そうであれば、一日一日、何のために生きるべきかを自覚すして生きられるなら、それに勝る幸せはないだろう。

メメント・モリ(死を思え)だ。

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大人のADHDグレーゾーンの片隅でひっそりと生活しています。メンタルを強くするために、睡眠至上主義・糖質制限プロテイン生活で生きています。プチkindle作家です(出品一覧:https://amzn.to/3oOl8tq