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周囲の人に自分の弱さを伝えたほうが良いというのは本当か。社会は甘くない。

ADHDしかり、HSPしかり、自分の弱さを周囲にしっかり伝えたらよい!という言説を聞くことがある。理解さえしてもらえれば、社会でうまくやっていけるというのだ。でも、それは本当だろうか。

私の好きな漫画のサトラレはそんなことを考えさせてくれる。

周囲の社会は厳しい

サトラレが周囲の世界に守られているのは、彼らが天才的な能力を持ち、国家の利益になるからだ。サトラレを保護する法律があり、それに従わないと処罰される。だから、周囲の人々は表面上サトラレを受け入れる。

しかし、実際には、周囲の人が内面ではサトラレを疎んじていることが、漫画の端々から伝わってくる。サトラレ自身、自分がサトラレであると分かった時には、自我を喪失してしまいそうになるくらい、サトラレは恥ずべき存在?であるという共通認識があるのだ。

ADHDやASPの診断を受ければ、社会が住みやすくなるわけではない。周囲の人が理解してくれるというのは希望にすぎない。発達障害を受け入れる職場では、確かに理解のある処遇を受けられるかもしれないが、社会は発達障害に対して容赦がない。

発達障害そのものというより、皆と一緒に行動できない、リズムを乱す人に対しては厳しく冷たいのが世の中なのだ。何と言っても、ADHD/ASPは、サトラレと違って、単なる凡人なのだ。周囲が理解を示す義理はない。

HSPは、そもそも診断されないので、いわゆる「自称HSP」が多い。こうなると、もはや理解を得るのは不可能だ。わかってくれるのは当事者だけだろう。そして、当事者には社会を変える力はない。息をひそめて生きていくだけで精一杯だから、期待しないで。

素の自分を出して生きること

それでも、サトラレに出てくる片桐りんの生き方は心地よい。彼女もまたサトラレだが、幼少期からの父の教えゆえに、彼女は思ったことはすべて口に出すようになっている。だから、思いの中にあることが人に伝わっても何の問題もないのだ。言っちゃうわけだから。

サトラレの中でも、とりわけ天真爛漫で愛すべきキャラクターである。ADHDが、この世界で生きづらいのは、自分自身を隠そうとするからだ。できる人たちの世界(そう見える)で、できない自分を隠そうとし続けるから、そのギャップに自尊感情が傷つく。

いつかはバレる。仮面をつけているに過ぎない。できないやつだと気づかれる。転落してしまう。内面では、いつも、こういう恐れと闘っているからだ。私も長年そう思ってきた。ADHDの本を読んで、こんな同じように感じる人がいるのかと驚いたほどだ。

絶対バレている

しかし、何人ものADHDと付き合ってきて、かなり分かってきたことがある。それは、他の人にばれていないと思い込んでいるのは、自分だけであるということだ。何とかそつなくこなしているように見えても、ADHDの動きには特徴があり、明らかに、うまくはできていないのだ。(バカにしているわけではない。自分だって同じだから。)

それなら、そうと「できないっす」「助けてください」と言ってしまったほうが、誰から見ても気持ちが良いだろう。できないのに、できないといわない人は格好悪い。知ったかこいている人は嫌われる。

誰でも不得意な分野があるのはしょうがない。怖いものも苦手なものも人それぞれ。これはADHDであっても、そうでなくても同じ。でも、できる分野では、他の人を積極的にサポートしていけば、なんとなくWIN-WINの関係が築けるものだ。

あ、そうそう、世の中にはADHDを助けてくれる人が一定数いる(男女問わず)。天性のお世話係みたいな人。処世術として、私は学校でも、サークルでも、職場でもそういう人をまず見つけることに全力を注いでいた。そういう人をとにかく見つけて友達になることかなぁ。

妻がまさにそういう人です、( ;∀;)

大人のADHDグレーゾーンの片隅でひっそりと生活しています。メンタルを強くするために、睡眠至上主義・糖質制限プロテイン生活で生きています。プチkindle作家です(出品一覧:https://amzn.to/3oOl8tq