自己肯定どうこうの話 最終

思いついたこと適当に並べて放置した結果全くまとまりがなくなってしまった。

書こうと思ったきっかけがアドラーの話2部作の内容から、心が大きく動いたから。他人がどういうときに感動という言葉や表現を取るかわからないが、自分は心が大きく動いたときにだけ使っている。
つまり感動したから。

人はみな、欠陥なのである。自分こそがもっとも自分の弱さを知っている。
その自分の弱さをひたすら気にして、その様子のことを自己肯定感が低い。

おそらく世の中の自己肯定感の言葉の使われ方はこういうことだろう。
そう表現している。

でもこの本を見て思ったことは、
おそらくアドラーは違うと。
私は 誰かの 役に 立っている
その感覚を得たときに だ け 、自らの価値を感じることができる
(つまり世間の自己肯定感)をえることができ、私は誰かの役に立った貢献感を得ることができる。
それでいい。

という話。
人はみな無力でうまれ、世界の中心として与えてもらうライフスタイル前提で生きてくる。

与えられてもらうライフスタイルからの脱却をアドラーは自立といい、
その教育の本質は自立させることを目的としている困難な作業と。

つまり思うことは人の自己肯定はみな低くて当たり前なのでは。
だってできないことだらけですからね。
デフォルトが自己肯定感が低いのが正しい。
でもそれでもできることがある。
他人のできないことを代わりにする。
誰かの役に立つと実感する。
そうしているときだけそんなに悪い自分じゃないと。

だから自己肯定感が低いと悩む必要は全くない。
一番小さな簡単なことから他人にできることは何だろうと考える。
という話。
自分はダメだと落ち込んでる暇なんてないし、意味もない。
なぜなら人は欠陥だらけだから。
欠陥な自分を否定できる時間は他人の役に立ったという感覚を得ること。

ただ興味を持った人はこれを見て納得するのでなく原文と文脈を読んでこその本当の意味を、より正確に理解できるからやはり原文を読むべきです。
もちろん文章から切り抜いて言い換えをする以上、どうしても表現にずれがでるし、加えて書き手の解釈も付与されるとどうしても正確さ重視するなら直接見るしかない。

アドラー心理学
嫌われる勇気 幸せになる勇気

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