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「してやったり」感

「まだ知らない失語症/もっと知りたい失語症」
1章 「してやったり」感 


(1)まど・みちおさんの絵
 「序」で問題提起したのは、目の前の失語症者をこれまで習った、あるいはテキスト上の失語症(者)に当てはめすぎているのではないかということでした。                               ここで「失語症(者)」と「者」を( )で囲っているのは、私が習ったことの多くは「失語症」ですが、「実際の失語症者」と対比する上で、( )付きの「失語症(者)」と記載する必要を感じたからです。
 下の図では、左の「習った失語症(者)」の型と、「実際の失語症者」のピースは上の突起が合いません。にも関わらず、指でくいっと押し込めているので、「当てはめ過ぎていないだろうか」とコメントを添えました。

タイトルなし

 

 私たちは失語症者に対面している時でさえ、ことばによって何らかの証明をすることを求め過ぎているのかもしれません。
 例えば、言語障害の自覚を問う場合、「ことばが出にくくなっていますか?」とことばで尋ねて、失語症者が頷くか、あるいは首を振るかを調べます。

「してやったり」感2

 または、「もどかしい」、「話せなくても困っていない」などの選択肢を書いて提示して、失語症者にどちらかを指差ししてもらったのを見て、失語症者がどのように感じているかを調べること、すなわちことばを介することが主たる方法となっています。

「してやったり」感3


  ことばの代わりに絵を提示して、もっとも近いものを指さしてもらうこともあります。しかし、絵は見た人の主観・判断が加わりやすいため、より客観性を高めるには「ことばで」確認することになります。
 例えば、この顔は、提示した方は「悲しんでいる」を意図したかもしれませんが、怒っているのか、悲しんでいるのか、他の思いなのか、判断は見る人それぞれで変わってくるのではないでしょうか。

「してやったり」感4


  それならば、「喜 怒 哀 楽」と書いて提示して、「どれが近いですか?」と尋ねた方が「見る人それぞれの判断」を加味することは省くことができそうです(しかし、相手の感覚を問うには味気なさを覚えます)。


 わたしが言うまでもなく、ことばは、私たちの表現手段、伝達手段であり、情報収集の手段です。話すことばによってその人柄が表れ、自分そのものになりうるとも言えます。
 その一方で、あまりにもことばに縛られすぎて、時にがんじがらめになることもあるのではないでしょうか。
 私は、忙しそうで苛立っている同僚に業務連絡をしなければならず、どう話せば互いに嫌な思いをせずに伝えることができるのか、考えねばならないことに度々遭遇します。何といえばいいのか。どういえば誤解されずに用件が伝わるのか。
 ことばを介するために、身も心もすり減らされることもあります。

 数年前の「日曜美術館」で、故まど・みちおさんがの抽象画が紹介されていました。まどさんは、童謡の「ぞうさん」の作詞をされた詩人あって、絵を描いていたとは意外でした。まどさんには抽象画に取り組んでいた時期があったことを知りました。
 このことを知った時は、いささか粗い言い方になりますが、「してやったり」と思いになりました。


 ことばの回復を支援する「ことばのリハビリ」を生業としていても、「ことば以外の伝え方があっていい」と改めて示されるのを見聞きするのは爽快です。それは回復を諦めるのではありません。過剰にことばに重きをおく風潮に疑問を持っているからです。このことは、別の章で触れます。

 詩人のまどさんが詩の創作だけではなく、絵に没頭されていた時期があったと知ったときは、「ことばから離れることが認められる」、「ことば以外の表現が受け入れられる」と心強く感じました。
 「してやったり」とは、心強さから立ち上った思いでした。


                    2021年2月7日 初稿



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