病みとお遍路③鶴林寺への過酷ドライブ
下書きが消滅して、モチベーションが下がっていたけど、気を取り直して書く(・ω・)φ
4年前の鬱一歩手前で退職して四国八十八ヶ所お遍路に行くお話。
鶴林寺カクリンジ〒771-4303 徳島県勝浦郡勝浦町生名鷲ヶ尾14
山道の10分って、聞くと短く思うが実際走ると長い。
ヘアピンカーブや急勾配で、エンジン音が凄まじく車が可哀想になってくる。
※ちなみにグーグルマップでは県道から山道に入って4分と計算されるが、無理無理無理!!(笑)
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左側は崖で落ちたら運悪けりゃ死ぬし、右側は側溝があり脱輪してレッカー呼んだとしても、いつ来るかわからんような場所だ。
所々ガードレールの無い箇所があり、視覚的に恐怖を倍増させる。
ガードレールが無いと、モロに崖や山肌が見えるので、自分のいる高さに目がくらみそうになる。
そんな道だけども、地元の人は結構なスピードで運転している。
対向する時は、相手の車が通行しやすいようにこちらは何ができるかというと、ひたすら側溝ギリギリにタイヤを寄せ、ハンドルをこれでもかと強く握り、ブレーキを思いっきり右足で踏み込み、息を止め微動だにせず車を停止をすることぐらいしかできなかった。
全くのド素人のように、無力。
颯爽と横切って行った軽トラのドライバーは、ポニーテールを揺らした若い女の子だった。
彼女が片手ハンドルで運転しながら会釈をして去ったのを見て、
うわー!カッコイイ~、こりゃ私の負けやな。
と思った。(笑)
こっちは冷や汗は出てるし、情けない顔してハンドルにしがみついてるってのに。
車の運転は好きだし、山道もそれなりにいけると自負していたけど、自信過剰だったなぁと思い知ったのだ。
所詮、私は街乗り専門ドライバーなのだ。
適度に信号機があり、角にはコンビニやファミレスがあり何時でも喉を潤す為に立ち寄ったり、すぐに休憩できるような道を走る程度のドライバーなのだ。
あんたはその程度なのだよと、山に笑われた気がした。
鶴林寺までの地獄の山道ドライブで、お寺の駐車場に着いた時には足と腕がガクガクになった。
鶴林寺で20番目。
全部で88番あるからね。まだまだ道のりは長い。
(88あるお寺、全部が全部険しい山の中にあるわけではないけども。)
ここでお参りをした時、自分の変化に気が付いた。
お遍路を始めてからこれまでは、本堂や大師堂の前で手を合わせ心の中で、自分のこれからのことや願い、希望、幸せになること、など【自己欲】について願掛けをしていたのだが、ここではなぜか、何も願わなかった。
縋って願って祈って、だった私がそれらは何もしなかった。
願いというのではなく、
「ありがとうございます、ここまで事故なく来ることが出来ました。」
という、感謝の気持ちが出たのだった。
手に汗握りながら、恐怖に耐えながら運転した事で欲がどっか行ってしまった気がした。
生きてるだけでじゅうぶんだ。
そう思いながら山を下って次のお寺へ向かったのだった。
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この鶴林寺を参拝した後からは、本堂と大師堂の前でお願いベースの願掛けはしなくなっていく。
どこのお寺でもそうだが、敷地に足を踏み入れるとピンと張り詰めた空気と、木々が茂り緑の香りに包まれ、もうそこに居るだけで、気持ちが楽になるように感じた。
不思議な感覚なのだが、あれだけあった欲や嫉妬、自己顕示欲などが静まっている気がして、何かに護られている感じがあった。
同行二人(どうぎょうににん)という言葉があるが、それなのかもしれないと思った。
同行二人
お遍路がお大師さまと二人連れという意味です。遍路では一人で歩いていても常に弘法大師がそばにいて、その守りを受けているとされています。
お遍路をしていると、ただただ自分との対話になる。
ひとつのお寺でするルーティンとしては、献灯、献香、お賽銭を納め、般若心経を唱えたり、納札を書いたり、いろいろ忙しいのだが、その所作一つ一つをこなすことで自分を見つめていく作業にもなるのだと思う。
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まだ続くです。多分(笑)