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ノブレスオブリージュ思想の弊害
最近臨床心理系の本を読んでて、自分には
「必要とされるならば、愛される」
「愛されているならば、必要とされる」
という思い込みがあり、社会や組織や人から必要とされていないように感じると強い不安をおぼえるのだと気づいた。
小さいころから親や先生や友達に頼りにされるのがうれしかったからね。
同時に、これは危険思想だと思った。
今までは本当の意味で霞ヶ関を客観視できていなくて、やはりどこかでは、組織の中で忙しくて"頑張ってる人"の方が偉いと思ってた。
でもこれって、自分の社会における存在意義を認めてほしい気持ちの裏返しだったんだなと気づいた。
そうしてやっと吹っ切れた感があり、いまに至る。
そもそも「自分の存在意義を生み出さなければ生きる資格がない」というわけではないことに今更気づいた。
で、これは確実にノブレスオブリージュ思想の弊害だと思う。
小さい頃から"勉強"ができて、親や周りに将来を期待されて、塾やら習い事やらたくさん投資してもらった子供は、大人になったら周囲の期待に応えられるような、世のため人のためになる仕事につかなきゃ、と思う。
それで親世代や世間からお墨付きのある「国」の立場で、公共性というオブラートに包まれた、時に暴力にも、ハリボテにもなりうる政策を世に出す。事務作業をする。政治家の手となり足となる。
霞ヶ関で若手が大量に辞めている様子を見ると、組織や社会に必要とされたいと切に願う勤勉な人たちの心が利用されて、人材が使い捨てされているようにしか見えない。
この職場で長時間労働をすることで若手に得があるとしたら、長く遅く働くほど増える残業代くらい?
それも、若手には「資産(ストック)にあまり余裕がないから運転資金(フロー)が必要だよね」と古い人たちに言われているみたいで、腹立つ。
そもそも若手の時期の自分の時間って何よりの資産だと思うし。
最近専門職ばかりの部署でOJTをさせてもらっていて、日々若手に割り当てられる仕事というのは、専門家のそれと違って、本質的には誰がやってもアウトプットが同じになる仕事なのだと改めて気づいた。
というか、ついこの間まで学生やってました〜という人に、世の中を左右するような意思決定をされたらたまらないものね。
若手のロジ仕事も、情報だけは集まってくるから、やりようによっては無意味じゃないと思う。やはりここでしか得られないものはあるから、ドキドキワクワクしたりすることもある。
でも仕事以外の生活を圧迫したり不健康になったりしてまでやることではない。
もう、苦しみつつ身を粉にして働くことで、自分が社会や組織から必要とされてることを証明しようとするのはやめようよ。悲しすぎる。
自分を犠牲にして働く人のことを、賞賛するのはやめようよ。
そういう風土があるから、長時間労働が当たり前になり、助長されもするんだよ。定時に帰ったり、有給を取ったりする人を白い目で見るのとか、論外だよ。
踏ん張って自分に負荷かけてないと、頑張ってることにならないわけじゃないんだよ。
これら私の思想が、古い人たちの生き方やこれまでの"がんばり"を否定するものであったら申し訳ないけど、我慢して低いQOLで仕事することを選んできたのは自分でしょ。
そんな勝手な伝統に付き合わされるのはごめんだよ、私は嫌だから、変えてく。
自分の日々の営みが、特段誰の役に立っていなくたって、生きててもいいんだよ。
楽に生きることは、逃げじゃない、賢さだと思うよ。
おまけ、先輩/上司になったら心掛けたいこと
・朝の挨拶と、帰りのおつかれさまを明るく伝える。
(気持ちよく1日を始めて、すっきり終えてほしい)
・率先して早く帰り、無駄に早く来ない。仕事に区切りがつけば、自分より先に帰ってもいいんだということを再三言う。
・指摘やお願いをするときはニュアンスや行間で伝えるのではなく、はっきりと言う。その際、背景も伝える。
・迷惑をかけたり、認識に齟齬が生まれたりした時は、しっかり謝る。
・共通の上司との良さげな付き合い方を一緒に探り、必要に応じて仮想敵化や神格化して結託を試みる。