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最近の脳内情勢


最近考えていることをダイジェスト版でお届けします。

歳を取ることを喜びたい

最近24歳になりました。もうこれ以上歳は取りたくないと16歳以降毎年思っているけど、こればかりは仕方ない。

若さを失いたくないという思いは常にありつつ、自分の若さゆえの青さや心の狭さや焦り、を憎らしく思うこともあって、もっと大人になりたいと日々願ってたりもする。

だから今年は、歳を取ってまた一つ大人になれたことを喜んでみることにした。

ある人には「毎日生きてることを当たり前と思っていると、歳を取ることを喜べないよね」と指摘された。

それだ。
私は日々の中の幸せに慣れすぎてしまっていて、最近は全然「今日も生きられてよかった」と1日を省み感謝することはなかった。

明日死んでもいいように日々を生きようということはいつも思ってて、できるだけ後悔のないように生きているつもりだけど、それとは別に、今日も1日自分や自分の大切な人たちを失わず生きられた、という事実に、まず感謝すべきだと思った。

自分は不幸せだ、という感情に陥ることがあったら、そんな自分が今手にしているものは何かについて(それは健康な体だったり、生きるために必要な住環境や仕事だったり、自分を好きでいてくれる人だったりするかもしれないけど)、一旦振り返ってみることにしようと思った。

こういう考え方は、他人に対してや自分のポテンシャルに対して期待値を下げることと同義かもしれないけど、当たり前に感謝する、ひいては「足るを知る」ことを、まずはこの一年心がけてみたい。

なんのために生きるか

上記のようなポジティブな思考もありつつ、「私これからなんのために生きるんだろう」というぼやっとした不安も、社会人になって、自分の目の前に漠然と未来が広がって以降、ずっとある。最近特にそれが顕在化してきた。

人生における自分のパッションを注ぐ先として、多くの人にとっていちばん身近なのは、仕事か、家族なのかなと思う。
でも、仕事人間になりたいわけじゃない。家族も、家族を自分ごとに捉えすぎて、自分の思い通りにしようとしたり、依存したりしてしまうのが怖い。職場か、家族、そのどちらかにしか居場所がない人にはなりたくない。
あくまで、職場にも、家族にも属していない、まっさらの自分があることを前提に、そこに添加する感じでいろいろなコミュニティで、自分の役割を果たしていきたいと思っている。

多分、自分以外の対象へ価値提供をすることを目的化して生きられた方が楽なんだよね。でもそれは自分の意思だけではどうにもならないこともあって、健全じゃない。

こう考えるとつまり、価値提供する先や所属コミュニティを分散させて、自分のために生きることを心がけようということに尽きるのかもしれない。でもそれだと「なんのために生きるのか」という問いに対しては、不十分な気がしてしまうことが多々ある。

もっと近視眼的になれたらいいのにね。不確実な未来や、自分の存在意義なんて考える必要ないのに。

そのためのヒントには、まずやはり、上で書いた1日1日を生き切ることに感謝する取組が必要だと思う。

あとは、何者でもない自分を許すこと、自分にはまず第一に自分を幸せにする役割があるのだということ(他者に任せるべきことでもないし、究極的には自分しか自分を幸せにできないこと)を、自覚する必要があるのではないかと思う。

国会議員に幻滅しなくなった

「企業がいくら社会貢献を標榜したところで、営利企業である以上、利益が最優先になる」のと同じように、「国会議員がいくら国のための政策を訴えたところで、票が集まらなければ議員でいられない以上、票集めが最優先になる」のは当たり前だという、当たり前のことに気づいた。

なぜか「国会議員」というと、世のため人のために働く職業であると思っているし、そうであってほしいと1国民として願ってしまうけど、よく考えれば、その期待と、議会制民主主義のシステムは整合していない。

だから国会議員の発言や公約の裏には票集めがあることにいちいち幻滅しなくなった。というか、どんなに国会議員の特定の発言内容が自分の主義主張とは相容れないものだったとして、その裏には、それを支持する人もいるのだということ、そういう自分には理解できない主義主張を持つ人も含めて「国民」だという事実。

でも資本主義と議会制民主主義の圧倒的な違いは、日本のように国民の政治参画が乏しい国においては、有権者である国民の参加率が低い国政という市場において「なすに任せよ」をされることになって、議会制民主主義のシステムは正常に機能するとはいえず、圧倒的に問題の温床になるということですね。