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とりあえずここで考えるよ

どうしてみんな、当たり前みたいに生きているんだろうか。働くこと、学校へ行くこと、食べること、あくびをすること、死ぬこと、今ここに生きていること。そのすべてに疑問を持たずにみんな生きている(ように見える)。それが当たり前だからという顔をして、世間を絶えず騒がすニュースを横目に流しながら、気晴らしをしたりなんかしつつ、なんとか上手くやっているらしい。

どうして?と問う。

どうしても何も……と困られてしまうとわかってからは、誰にも答えを貰えないその問いは降って積もるだけになってしまった。そういうものだと割り切るしかないと友人は答えてくれたけれど、それは私にとっては何の答えにもならなかった。
そういうものだと諦めるには、人生で起こるすべてのこと(あるいは遠い異国で起こるさまざまなこと)は大きく、深く、苦しかった。
『そういうものだから』。それがみんながわかっている答えなのだとしたら、どうして?と何も知らずに立ち尽くしているのは私だけなのだろうか。
ならば本を読んだり絵を描いたり、空を見てぼんやりしたりしているうちにきっと答えを見落とした。落とした場所など覚えていないし、覚えていたとしても、人生はどうやら前にしか進めないようなので拾いに戻ることはできない。
この世界で生きていくための何かが、私には足りていない。

ひとには、「原因も理由もわからないけれどなんだかさみしい」「意味もなく不安だ」といった瞬間があると思っている。少なくとも私にはあって、それは不意にやってくる。
暗くて大きくて得体の知れない何かは私を飲み込もうとさらに大きく膨らんでいく。少しでも気をゆるめれば、たちまち足元から崩れ落ちてしまうだろう。だから必死に抗う。足に力をいれて、ここに立っていることを確かめるように下を向く。

ひとりきりだ。
生に伴う哀しみを思い出す。どれだけ愛に愛されようとも癒えることはない、私だけの痛みである。
私は長いあいだこの痛みの正体がわからなかった。わからないから恐ろしく、わからないから痛かった。

ある日、空を眺めて立っているだけのひとに出会った。海の真ん中で仰向けに浮いて漂うひとを見た。彼らの傍に寄ってみる。彼らはそれぞれに「わからないな」とぼやいていた。さまざまなことがわからないことをわかっていた。
わたしは、ひとりきりではなかった。だだっ広い世界で、ひとりで迷っている気がしてさみしかったのだ、ずっと。

求めた答えは見つからない。けれどどこかに一緒に迷う、悩む誰かがいるのなら、今はそれだけでいいと思った。
波のような怪物のような、暗く大きい何かの向こうにひかりが見えた。




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