見出し画像

「ディープな会」

ある日残業をしていると、別の部署の部長に話しかけられた。

「あんさあ――」と彼はチョイワル風にこう切り出した。

「今からディープな会やんだけどさ、来る?」


当時、私の部長と彼は仲良さそうに話すことが増えていた。

おそらくそれで飲みに行き、その場でアイデアが降ってきたのだろう。

そして、アイデアはすぐに実践するのが、現代のビジネスパーソンだと息巻いたのだろう。

彼らは、社内でイベントを開催することに決めた。

彼に話しかけれたとき、ああ、そういえばあのイベントって今日だったよなあ、と思った。

社内ポータルでたしかに告知されていたが、なんだか得体が知らないと思っていたイベントって――。


私が「ちょっと残業あるんで、余裕ありそうだったら行きます」と、「行けたら行くわー」と何も変わらないようなことを言うと、彼は「おう」とこれまた兄貴分風に言い、立ち去っていった。

再度パソコンの画面に向かいキーボードを叩きながらもなんだかモヤモヤして、頭の片隅でこう考え始めていた。

「ディープ」という自称から漂う胡散臭さはいったいなんなのだろうか、と。


大学生の頃、4月頭の数日という新歓時期に健康診断があった。

会場となっていた体育館で検査の順番待ちをしていると、素行が悪いと評判のテニスサークルとメンバーと思しき人達がやってきた。

彼らは前日の新歓に参加した新入生の困惑を大声で「まあ、俺らのカオスなノリにはついてこれねえよなあ」と評していた。

それを私は醒めた気持ちで見ていた。

「ディープな会」とくだんの別の部署の部長から聞かされたときも、私は同じ気持ちだった。


「ディープ」という形容詞が嫌いなのではない。

会の参加者が「ディープな会だったわ」と感想を述べることには、さほど「醒め」はしないだろうと思う。

ただ、自分たちのことを、あるいは自分たちの開く会のことを、「ディープ」だの「カオス」だのと表現することが鼻持ちならないのだ。

ましてや、開く前からそんなふうに言うことは――。


「ディープな会」がこれからある、と述べることは、その会を「ディープである」とあらかじめ自己規定することにほかならない。

仮にその会があまり盛り上がらずに終わったとしても、会が「ディープである」ことはすでに確定事項であり覆されることはない。

つまりそこでは、自己批評性が損なわれているのだ。

会は間違いなくディープだった。なのにイマイチだったのはなぜか?

発想の起点が、これでもう固まってしまうのだ。

繰り返しになるが、ディープさは自明とされ、疑われることはない。


その行く末は、往々にして次の二つのいずれかだ。

「まだこれは先進的すぎたな」などといった慰みの言葉と共に、企画が忘れ去られていくパターン。

そして、企画そのもの以外の部分――たとえば、登壇者や参加者の「参加意識」などに――を批判し始めるパターン。

ちょうど、あのテニスサークルのメンバーが、自分たちのノリが寒い可能性に目をつぶり、自分たちの「カオスなノリ」に「ついてこれ」なかった新入生たちに非があるかのような口ぶりであったのと同じように――。

だからなのだろう。

そういう類の「集まり」が、本当にディープだった試しはない。


その日のうちにやるべきタスクが終わったとき、時刻はそのイベントも最終盤にさしかかったあたりだった。

なかなか骨の折れる仕事だった。

始める前は、怖いもの見たさで少しぐらい顔を出しても良いかも知れない、とも思っていたが、いつしかそんな気力も消え失せていた。

ちょうど帰り支度を始めていた同僚を捕まえて、私はしれっと帰った。

そのイベントの第2回が開かれたという話はついぞ聞かない。


【今回の一曲】

ハヌマーン/猿の学生(2009年)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?