私には歯が8本ない
私の歯は8本欠けている。
4番。犬歯の隣の第一小臼歯が4本。親知らずが4本。
それらは、望んでいなかった歯列矯正を途中で断念した跡である。
大学2年生の夏休みのことだ。
帰省するなり、私は母によって叔父の中学時代からの友人がやっている歯科医院に連れて行かれた。
言われるがまま診察用の椅子に腰掛けると、口の中を一通り診られた。
自身の口腔環境が誰かに自慢できるほど良好ではないとは思っていたが、母に連れて来られてまで診られる理由は一切思いつかなかった。
その歯科医は「じゃあ紹介状書いておくから」と言った。
その後は特に何事もなく過ごした。
私は下宿に戻り、やがて大学の秋学期の授業が始まった。
紹介状はまだ両親の手元にあった。
冬の特に冷えた日だったと思う。父が不意にやって来た。
前日にいきなり、何時に行くとも告げず「行くから」とだけ電話で一方的に告げてきたのだ。
私は父に連れられ、かの歯科医のツテがあるという、紹介状を宛てた医院に向かった。
そこは彼の友人の息子がやっている医院らしかった。
途中で何度か電車を乗り換える、一時間ほどの道のりだった。
医院に着き、この歳になって――と思いながら父と一緒に診察室に入った。
若い歯科医は「本日は歯列矯正のご相談ということで」と切り出した。
私は――我ながら勘が鈍いとしか言いようがないが――このときようやく、両親が私に歯列矯正させることを考えていると知った。
困惑する私に代わり、父が隣で話を勧め始めた。
気がつけば歯列矯正費入金の手続きの説明や、次回施術の日程の予約などが行われていた。
歯科医院の挙げた日程に対し、父がまず肯き、そのあとで私に「問題ないな」と訊ねる始末だった。
私は、実際に矯正器具をつけるのは他ならぬ私なのに、なんだか非当事者のようにその光景を眺めていた。
私自身はほとんど何も話さぬうちに、その日の話は終わった。
初めの施術は、第一小臼歯を1本ずつ、4回に分けて抜いていくことだった。
なんでも矯正して歯を綺麗に並べるためには、歯が並びやすくなるよう抜歯をして「余裕」を作る必要があるらしかった。
「はあ……」と所在なく私は肯き、施術は始まった。
歯茎にチクっとした痛みが走った。麻酔が打たれたのだ。衛生士が、私の口から涎などを機械で吸った。頬の内側が引っ張られて痛かった。
「行きまーす」と言って、歯科医が楔のようなものを口に突っ込んできた。
兎にも角にも、その医院への印象は最悪だった。
出会い方も好ましくなかったし、家から遠かった。
なによりその歯科医のことはどうにも好きになれそうになかった。
細かな不満を言い出すと切りはないぐらいに、私はその医院や歯科医、そして麻酔の効きが悪い抜歯施術のことが嫌で仕方なかった。
「次は親知らずですね。4本抜いてからまた予約してください」
ある日の施術後、そう言われた。
この第一小臼歯4本の抜歯が完了した日を機に、私はその医院に通うのを止めた。
私の口からは歯が8本欠けている。
このあと、くだんの叔父の友人の医院で2本、大学病院で2本の、生えてくる予兆のない親知らずを抜いた。
矯正後に親知らずが生えてくることで再度歯並びが乱れることを危惧した予防的措置であった。
これらの施術は、両親がこれまた私の知らない間に予約していた。
レールはいつの間にか敷かれていた。
それでも私は、講義などが忙しいふりをして、くだんの医院に再度通いはしなかった。
そしてそのまま現在に至る。
私の歯の欠損は――少なくともプロの目には――奇異に映るらしく、歯の痛みなどで歯科医院に行くと必ず理由を訊かれる。
そのたびに「歯列矯正を初めたものの、忙しくなって――」とだけ答える。
まさかいきなり、両親の話を始めるわけにもいかずそう話すのだが、すると当然歯列矯正を再開する気はないか、という話になる。
「そこまでやって止めるのはもったいない」と彼らは言う。
私にも、その言い分はとてもよく分かる。
それでも私は、歯列矯正がたまらなく嫌なのである。
青臭い言い回しにはなるが、自分が矯正用のワイヤーをつけている様を想像すると、それが何かに屈して猿轡をかけられた姿に思えてならないのだ。
逃れがたい、「動き出したもの」という引力とか、「親戚づきあい」という年長者に有利に働きやすいシステムとかに――。
そして私は、適当な返事をして、その歯科医院から逃げてしまう。
もうその医院には行きづらい。
また、経験則的に別の医院でもまた歯列矯正の話が出ることは確定的に明らかなので、別の医院に足を運ぶこともどんどん億劫になる。
最近の私の悩みは、歯がしばしば痛むことだ。
億劫さに目をつぶって、同じ話をされることを覚悟して、診療を受けるのが正しい判断なのだろう。
虫歯を放置していたら根本が膿んでいて――みたいな話もたびたび聞く。
それでも私は、「行かない」理由を何かしら探してしまう。
ああ、いやだ。歯医者に行くのも、言い訳を探してしまうのも。
【今回の一曲】
ポルノグラフィティ/ラック(2003年)
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