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青春って感じじゃない

これは、私たちが高校二年生の頃の話だ。

体育の授業の後、私たちは教室に戻ろうとしていた。

汗で貼り付いた体操服が気持ち悪かった。グラウンドから砂埃の臭いがした。


渡り廊下へと続く階段をのぼっているとき、前田という男が言った。

「なんかさ、全然青春って感じしねえよな」

その芝居じみた――そして、だからこそ芝居では聞かないような――言葉に私たちは驚き、彼を見つめた。

「この生活はなんなんだよ。毎日は。俺たちの年齢ってのは、青春ってやつじゃないのかよ」

彼は、身振り手振りを交え、そう叫んだ。


高校生と言えば恋だ、と前田は言った。

放課後、ショッピングモールでデートするとか。

体育の授業で「頑張れー」と応援してもらうとか。

でも俺たちの高校は男子校で――だから更衣室でなく教室で着替えていたのだが――、周囲にはムサい男しかいないじゃないか、と。

それは、ほとんど魂の叫びと言ってもよかった。

しかし思うに、青春を自覚することはそもそも不可能なのだ。


青春はいつも「大人」が言う言葉だ。

だから青春はいつも過去であり、現在ではない。

青春は思い出の中にしか存在しない。

出来事が過去になり手が届かなくなったとき、それらは美しい青春になる。

年代特有の不安とか、憤りとかは、忘却の彼方へと捨てられてしまう。

青春とは理想のことだ。

だから、リアルタイムで生きる当事者の実感とズレるのは当たり前なのだ。


渡り廊下で、私は前田に「後から今を思い返せば、それが青春なのだ」と言った。

今が青春なのではなく、後から今を青春と名付けるのだ、と。

私は、そういうことを言ってしまう醒めた子供だった。


この話の要点は、思い出のなかにしか存在しないはずの青春が、今この瞬間にあるべきだとするイデオロギーみたいなものが存在することだ。

そして、それを私たちが内面化していたことだ。

叫んだ前田も、醒めていた私も。


あの頃、私たちの手元には、大人世代から渡された青春詩歌集があった。

前田はその詩歌集に、必死になって歌を書き記そうとした。

「青春」を重んじ、美しい映画のフィルムに自らを焼き付けんとしていた。

対して私は、今も昔もそしてこれからもページが白紙のままであるその詩歌集自体が青春なのだと嘯いた。

「青春」を努めて軽視し、目をそらそうとしていた。


あの頃はもう何年も前の話だ。

街で中高生が騒ぐのを聞くとき、学生カップルがくっつきあっているのを見かけるとき――つまり、いわゆる「青春」めいたワンシーンに遭遇したとき、私は、前田のあの叫びを思い出す。

前田はあのときの問いを覚えているだろうか。

10代の頃を「青春」だったと振り返るときがあるのだろうか。

詩歌集の行方を、私は知らない。


【今回の一曲】

Base Ball Bear/SAYONARA-NOSTALGIA(2006年)


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