ノーベル文学賞発表の日に考えたこと
ノーベル文学賞の受賞者が発表された。
今年は、発表が見送られた昨年度すなわち2018年度分も含めての発表となり、ポーランドとオーストリアの2名が受賞した。
そのことが私は本当に悔しかった。
村上春樹が受賞しなかったからじゃない。受賞者が日本人でなかったからでもない。
受賞者の予想が外れたからだ。
私は毎年、ノーベル文学賞の受賞者を予想し、SNS等で発表している。友人が予想していたのを真似たのが最初だったと思う。以来、なんとなく惰性でそれを続けている。
机に置いていたスマホにニュースアプリの速報の通知がきて、私は予想が外れたことを知った。
頭を抱え天を仰いだ。
気持ちを落ち着かせようと、立ち上がって歩き回る落ち着きのない行動をした。
ひとしきり悔しがってから、ふと考えた。
はて、なんでこんなに悔しかったのだろう?
普段の生活や人生で、悔しがったほうが良いだろう場面はたくさんある。
部活の試合に負けたとき。
英語が喋れなかったとき。
好きな人に告白してフラれたとき。
「その悔しさが君を成長させる糧となる」は、悔しさにまつわるクリシェだ。
しかし、ノーベル文学賞の受賞者を予想することがいわゆる成長につながる可能性は極めて低い。
賭けていたわけじゃないので的中したとして見返りもないし、誰が褒めてくれるわけでもない。
それは、ただひらすらに無意味なゲームである。
悔しがったということは、その無意味なゲームに少なからず真剣だったということだ。
「本気だから悔しい」これも悔しさに関する常套句だ。
その悔しさを、もっとちゃんとしたことに向けられたなら――。
英語とか、ビジネス上の社交とか、家事とかの出来なさに向けられたなら――。
悔しさは成長の糧である。
そうできたなら、私の将来はきっと明るい。
しかし私は、そんな未来を正しく欲望できない。
そういうことの出来なさを、上手に悔しがれない。
そのことが情けなくて、夜はいつもちょっとだけ胸が詰まる。
欲望することは、期待するということだ。
その欲望が満たされることを。
目指す場所に近づき、やがて辿り着くことを。
そして悔しさは、期待のあるところにのみ生まれるものだ。
ならば明るい将来は、私の期待の埒外なのだろう。
無意味なゲームに興じることを非難したいわけではない。
けれど、それをひたすらに賛美したいのでもない。
ただ分からないのだ。
自分が、上手に悔しがれない理由が。
ノーベル文学賞受賞者の予想が外れることと、英語とかの出来なさとに、自分のなかでどのような差があるのかが。
私はこれからも、無意味なゲームに興じることだろう。
それは実際楽しくて、またそれを楽しむ気持ちを否定したくもない。
けれど、どこか一抹の寂しさは残る。
正しい欲望を羨んでしまう。
私は、明るい将来を欲望できることを欲望している。
【今回の一曲】
けやき坂46/期待していない自分(2018年)
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