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アイカツ10th STORY との対峙

・アイカツ! 10th STORY ~未来へのSTARWAY~を鑑賞。旧カツが好きで、スターズで懐疑的になり、フレンズで引退したのがこのシリーズと自分の付き合いだった。改めて、本当にアイカツが好きだっんだなぁとしみじみと突きつけられる。記憶の蓋をガッとこじ開けられ、想い出という映画のテーマと自分自身を見事にリンクさせられてしまった。思い出す事の無かったキャラの名前や物語のシーンがフラッシュバック。完全なる感傷。本作はテレビアニメでは絶対に踏み込めなかったであろう点まで描いている。それは人間という生物に対する賛歌でありながらも、いずれ終わり死に至るという絶対に逃れ無い真実性を臆する事なく突きつける。

・人はやがて別々の道へと歩み、繋がりは希薄になるが、人は間違いなく繋がっている。正直、これは人によってはかなりしんどい部分を提示されただろうと思う。勿論私自身、酷く感傷マゾ的な一面を駆り立てられた様に感じる。作中で言う「ここまでこれた」ここまで生きてこられたじゃないか、という部分は救いでありつつ、呪いでもある。でもその応援を否定なんて出来る訳が無い、そのアンサーに匙を投げるのは生に対する冒涜に違いない。一際、強烈なのはエンディング曲である「氷の森」だ。美しき想い出、でもそれはあくまでも想い出。幼年期からの脱却、氷の中に記憶を留め、囚われずにそこから去る。ある種説教くさい部分もあるだろうが、これこそ実存主義的な希望に溢れるアイカツという作品の徹底的な答えなのではないか。

・自分が初めてアイカツという作品に出会ったのは『Trap of Love』という楽曲のアレンジ版をSoundCloud聴いた事に始まる。こんなカッケェ曲が女児アニメなの?ってあれよあれよと視聴してハマったのを記憶しています。話は逸れるがそこからプリリズやプリパラといった同ジャンルの他作品にも着手していった流れも。

・結局今アイカツについて何を覚えているかと言われると鳥頭故に、最早ぼんやりとした造形しか残ってはいない。あの時の感情を書き記す物が最早手元には残っていないからだ。リアルタイムで追いつけたのは3期の終わりぐらいからか4期ぐらいからかも曖昧。それでも面白いと明確には感じていた。勿論、全てを手放しで受け入れていた訳では無かったのだが。

・それ故に、スターズのシナリオに適合出来ず見事に反転アンチと成り果てた。この件に関しては過剰すぎたなと未だに悔やむ。しかし、あのストーリーが良かったとは再度鑑賞して恐らく個人的には思わないのだろう。多分、自分は未だに劇場版のスターズに囚われているのだから。自分にとってはこれが氷の記憶のままで良いと切実に思う。

・また今後女児向けアニメひいては子ども向けアニメを鑑賞する機会は自分にはないのだろうとも思う。まあ実際、現在では様々な作品達がかつて程の繁栄は失ったのだから強い子ども向けアニメが今後現れるとは到底考え難い。別に決して界隈に人が居ないから面白くないと断言するのでは無い。それを言ってしまえばインディペンデント映画を支持する自分を否定するのと同義だ。ただ、自分にとって無理な行為になっただけの事である。

・かといって割り切りかつてのグッズを断捨離した訳でも無い。前年かなりの物や本を処分したが、アイカツのCDやデータカードダスまで捨てる気にはなれなかった。えびポンのぬいぐるみも健在だ。

・映画の話に戻るが、やはりこれで良いのだと実感する。アイカツという創作物と共にしたのは苦楽であり、確かな経験である。今の自分は覚えていなくとも、かつての自分はそれを覚えており、その全ては劇中のキャラクター達が抱える感情と同化する。この全ては素晴らしき日々へ固執する懐古主義的な妄念では無く、素晴らしき日々をただ振り返る存在に成り得るという願いに尽きるのだ。囚われるのではなく、ふと、思い出す存在に。

・こうして自分も長々と懐古しているのだから、固執しているのでは無いかと自己憐憫の忍足が聞こえるが。しかし、これもまた一時的な熱の浮かれに過ぎないのであろう。きっと、この文章も忘れる。これは記録、なので、記憶とは違い消さない限りは感情の羅列として明確に残るのだが読みでもしない限り、ぼんやりとした記憶に移り変わるのを待つだけだ。

・が、アイカツという作品をかつて好きだった。色々あったが、好きだった。というのは精神的な死か肉体的な死に至るまでは覚えてるのだろう。それが好きだった創作物に対する経験の証明なのだから。

・だからこそ、この10thの映画が抱擁であると確信出来る。大人になれよという投げやりで突き放したチープなメッセージとは違い。死者に対する今までありがとうという鎮魂歌であり、生者に対するこれからも生きていけよという応援歌である事を両立している。これは映画で描かれる彼女達の卒業と現実の我々が完全に融和したと言っても過言では無い。

・きっと「未来向きの今を キミに見せるね」というのはこういった指標なのだろう。別に特段、こうなれと模範的な姿勢を示す訳でも無く自然にごく当たり前にそうあるがままに自分にとっての現実を享受して行って欲しいという実に純粋な願いの言葉なのだ。

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