ゆうきさんのこと

※センシティブな描写を含みます


ゆうきさんは昨日で40歳になった。

私がゆうきさんの誕生日を祝うことはもうない。

私はさよならを言うことなくゆうきさんから離れて、東京も離れて、今ここにいる。

ゆうきさんは9年前に合コンで知り合って、随分綺麗な顔の人だなと思った(後でモデルとして活動していた事を知った)。私ごときがこんな美形の男性と友達になれるなんて、と地味な大学生から社会人デビューしたての私は随分驚いたのを覚えている。
その後2人で食事をした時に隣にいた私の髪を撫でて、映画のようなキスと共に私にお付き合いしましょうと言って、一時期恋人の関係だったと記憶しているのだけれど、5年間の関係で私は最後まで敬語だったし、ゆうきさんは最後まで何を考えているかよく分からなかった。

多分ゆうきさんが私を好きでいてくれたのは最初の2ヶ月だったと思う。7月に付き合い始めて、10月に機嫌を損ねたゆうきさんに路上で置き去りにされてから、私はもう好かれていなかったと思う。そして皮肉にも身体の関係とたくさんプレゼントを貢ぐ癖はそこから始まっていった。親から歪んだ愛情を与えられ、異性は穢れとして教え込まれた私はゆうきさんの愛し方がよくわからなかった。男性から女性への愛って性的な行為だけだと思っていた。だから、食事だけの日は愛されていないんだと思っていた。

今の夫と交際を始めてから現在4年で、私はそれよりも長くゆうきさんと一緒にいたはずなのに、ゆうきさんと居たことはもうあまり思い出せない。明日もひとつ、息子と夫との暮らしに上書きされて思い出を忘れるかもしれない。忘れていいけれど。

たくさんのカフェとたくさんのホテルに行った気がする。ゆうきさんの家にもたくさん行った気がする。そういえば私はひどい会食恐怖症で、家で夫や息子と食卓を囲むのさえしんどい時があるけれど、ゆうきさんとは大丈夫だった。なぜだろう。

おじいさんが経営する小さな料理屋で出された山芋のステーキが美味しかった。

ゆうきさんの家で抱き合った後に寄ったカフェで食べた大きなケーキが好きだった。

東京タワーに安くて空いている水族館があることを教えてくれた(これが5年間で1番有益な情報だったけれど今はもうない)

クリスマスや誕生日にいろいろな時計をプレゼントした。ゆうきさんは流石に気が引けるのか5万円以内の時計を6歳年下の私にねだった。そしてお返しに10分の1以下の値段であろう安っぽいアクセサリーや時計をくれた。

水族館でデートした時に見つけたイカのぬいぐるみが妙に気に入ったらしく、購入した後ずっと家のカーテンレールに飾ってあった。まだあるのだろうか。

待ち合わせにはいつも遅れてきた。1時間遅れは当たり前で、何時間も待たされることもあった。夏はタンクトップにサングラスという衝撃的な格好だったし、冬はいつも長すぎるロングコートを着て、ぬうっと現れた。175センチの実際の身長より何故か大きく見えた。

ゆうきさんの家は東京の飲み屋街を外れたところにあるボロボロのアパートの2階で、4畳半の部屋にCDが何百枚も積み上がっていた。大量のガムのボトルと、使われていない香水と、弾いていないギターがあった。虫はいないけれど衛生的でもなかった。隣にシライという表札がかかっていた。シライさんを見たことはなかったけれど、この古いアパートの壁だったら私の嬌声が聞こえているのかなと思った。金属のフレームの折りたたみベッドは2人の重さにギシギシとうるさかった。夏でもモコモコの毛布が敷きっぱなしで、ベッドの中は体臭に満ちていた。私は潔癖症なはずだったけれど、何故かゆうきさんの部屋ではそれさえ愛しかった。

家に行った時はトイレに私を追い詰めて奉仕させるのが好きだった。

喧嘩した次のデートで家に行った時、読者モデル時代の雑誌を見せてくれた。

割り勘の時に私が財布を出すのがちょっと遅れただけで不機嫌になって喋らなくなった。

私が全額出した日本料理屋ではとても機嫌が良かった。あの時の天ぷらが美味しかった。他人に食事を施すとこんなに気持ちが良いんだと思った。

ゆうきさんのボクシングの試合を見にいった時、一度だけ男友達に紹介されたけれど、応援しにきた人、と紹介された。恋人でも、友達とさえも呼ばれない関係だと思い知らされた。

ゆうきさんと1円でも安いホテルを探して延々歩き回った。この後が楽しみなはずなのに、彼のお金がない様子が惨めで恥ずかしく感じてホテル探しは早く終わらせたかった。奢る気持ちよさに目覚めた私だったけれどホテル代は奮発したくなかった(これは正解だった。一度許してしまえばとんでもない出費になる)

一度、私の親の圧力でゆうきさんと別れるという話になって、その話を切り出した時にいたカフェの名前が「グッドニュースカフェ」という名前で皮肉が効き過ぎていた。

別れて3週間で、私から別れると言ったのに耐えられなくて私からよりを戻した。

親から逃げる為に重ねた、数えきれない嘘。

情景はたくさん思い浮かぶのに、あの時した会話の内容は全く思い出せない。端正なゆうきさんの顔も、もうあまり思い出せない。

もう一度体験したいキラキラした情景も多いのに、詳細に思い出そうとすると気分が悪くなるのは何故だろう。

4年前、ゆうきさんは家に来た私の服装をバカにした。ゆうきさんから誘ったのに、抱き合った時のゆうきさんは、いわゆる「萎えて」いた。もうゆうきさんに私は必要ないのだ。惰性という言葉がぴったりだった。私もゆうきさんを卒業する時が来たことを悟った。

私は家から駅へ送ってもらうときに、わざとゆうきさんを置き去りにして少し先を歩き始めた。小さな意思表明だった。結局は一緒に歩いて、いつもの「お疲れ」で別れた。それを最後に私からデートに誘うことをやめた。切り替えて本格的に婚活を始め、夫と出会ったのはその直後だった。

ゆうきさんからは1度だけ会う連絡が来たけれど、私はその日は都合が悪いとだけ言った。もう会わないとは一言も言っていないけれど、これだけでゆうきさんは2度と私と会わなくなるのを私は悟っていた。私の思った通り、それっきり連絡は来なかった。
※ゆうきさんと別れるきっかけはもう一つある。最後に関連の記録を載せておく

都合の悪い私はもういらないということを、私はとっくに知っていたはずなのに、ずっとゆうきさんにしがみついていた。

時間もお金も沢山無駄にした事を悔やむあまり、ゆうきさんと付き合わなければよかった、とたまに思う。でも、きっとゆうきさんも私の人生の中で重要な存在なのだろう。

ゆうきさんに好かれるために子供っぽい眼鏡からコンタクトレンズにした。服も変わった。変わった途端に周りからの視線も変わった。なんだか女優になった気分だった。数年間、シンデレラのような体験をさせてくれたのはゆうきさんのおかげ。

でも、その後一番好きだったゆうきさんから愛情を感じられなくて、お金で解決しようとしたり狂っていったのもゆうきさんのせい。

ゆうきさんと交際中にも出会いがあって、そっちの方が幸せな家庭への近道だったような気がするけれど、でも時間を無駄にして遠回りしたからこそ当時途切れなく婚活していた夫がたまたまフリーでいる時に出会えて、結局近道するより1番幸せな方向に行けた。

ゆうきさんと居た日々があったから、今、夫からの愛情がとても優しく感じて、嬉しく、愛おしく思う。そして私も全力で素直な愛情を夫に注げる。愛情の反面教師として、ゆうきさんは私の心にひっそりと住み続ける。少しずつ思い出を上書き保存されながら。


ゆうきさんと離れた道を歩く事にした、もう一つのお話


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