錦繍 宮本輝

本題に入る前に、まず情景描写の素晴らしさから話さなければと思った。
偶然乗り合わせたゴンドラリフトでの風景、静まり返った中での息遣い、リフトの窓から入る夕刻の光、宿の窓からひっそりと見送る母子の顔が見えないような眩しさ、猫に食べられる鼠、ダリア園で美しい星々を見る親子のシルエット、有馬が1人、もう来ることのない由加子を待つかのように一晩を過ごす清乃家の部屋の湿度、由加子の死んだ床の間の青白く光る蛍光灯、落葉を乗せたままの墓碑、細く長く煙の立つ3本の線香。往復書簡という交互の一人称視点の文章が非常にうまく働いている。全てが映画を観ているかのように鮮明に脳裏に映った。

そうして思い描く中で気がつくのだが、勝沼も由加子も、それぞれ亜紀と有馬にとってかなり近い存在であるにも関わらず、暗く靄がかかったように顔が見えない。(亜紀にとっての有馬、有馬にとっての亜紀も同様だが、終盤になると不思議と顔が見えるようになる。)その一方で清高や令子は眩しいほどの発光を感じる。なぜだろうか。

有馬は由加子という過去に囚われ、それに亜紀という現在を引き摺り込み、亜紀も亜紀で有馬という過去に囚われ、勝沼という現在を引き摺り込む。自らが死んで尚有馬を死に誘う由加子、死んでいる自分を見つめながら生き返ることによって亜紀との別れを決める有馬、有馬との傷を埋めるように勝沼と結婚する亜紀、愛人と子どもとの生活を隠しながらも別れずに亜紀と生活を続ける勝沼。どこを切り取っても由加子という「過去」が亡霊のように纏わりついている。

清高や令子を眩しく感じるのは、彼らの目に光るものがその過去と完全に切り離された(かのように見える)「未来」だからだ。それも亜紀や有馬にはどう手をつけていいか全く分からないような未来だ。幼く障害もあり何も知らない清高と、他の登場人物とは一切の関わりがなく、借金も肩代わりして全てを清算し、きらきらした目で新事業を切り開いていく令子だけが、業ともいえるこの輪の外にいる。清高を立派に育てること、令子の事業を支えること、これらは彼らを助けることのようで、実は違う。今までの自らの存在から無理やり剥がされる体験によって、亜紀自身、そして有馬自身を、過去の呪縛から救っている。由加子の蒔いた過去という抜け出せない暗闇から、彼らだけが未来へと連れ出してくれる。

有馬の見た夢のように、彼と亜紀がそのまま夫婦として存続し、「手を引く女の子」がいたとして、果たしてこの暗闇から逃れられただろうか。きっとそれではだめだった。だからこそ彼はいつまでも先を行く彼女に追いつけなかった。同様に亜紀も、有馬とも、そして勝沼とも、別れるしかなかった。そして手紙のやり取りも、ふたりは辞めるしかなかった。

令子がしたのは借金の清算だけではない。彼女が有馬のいない部屋で借金の肩代わりをした瞬間、物語から由加子が消えていくのを感じた。(正確にはその少し前、事業の話を切り出したシーンからかもしれない。)あの瞬間、「過去の全て」が精算された。実際に登場したシーンは殆ど無いにも関わらず物語を通してあれだけ重苦しく存在感を放っていた由加子という影が、突然令子という光に取って代わられた。暗い部屋から突然外に飛び出したときのような眩しさを感じた。次のシーン、有馬のほかに誰もいない真暗な清乃家で、床の間を照らしていた蛍光灯の青白い光は間違いなく由加子だった。有馬はあの部屋で一睡もせずソファに座り、そのうちに夜明けが来る。床の間を照らす青白い光は朝日に飲まれて消えていった。

生きていることと死んでいることは同じことかもしれない、という台詞。
命というものが存在する限り、その命は別のだれかの生へ影響を与える。命の影響に、本人の現在の生死は実はあまり関係がない。「生きているか死んでいるか」ということよりも、「存在していた」ということに意義がある。作中モーツァルトがよく取り上げられるが、モーツァルトの「曲」には意味がないように思う。そうではなく、「もう死んでいるだれかが作った曲が人々の心になにかを残す」というその大枠のしくみ自体が、「生死ではなく存在に意義がある」ということを表現している。モーツァルトと同様に、由加子はもう十年も前に死んでいて、ほとんど彼女の言葉も行動も作中に出てこない。それなのに、この小説の中で一際の存在感がある。この物語の事象の全ての起点が彼女の行動だからだ。誰かの行動が、周りの誰かの人生を変える。何らかの行為をすれば、その行為は消えず、必ず次の行為を引き起こす力になる。仏教における業そのものの考えが、この物語の根本にある。

物語序盤から圧倒的な存在感を持っていた「過去(由加子)」は、終盤になるにつれ「未来(清高、令子)」に取って代わられる。最初は控えめだったそれはクライマックスでは全てを覆い隠し、由加子というくらい過去を塗り潰すかのように眩しい光に包まれる。
けれども大きな枠組みの中では、そんなことは些細な変化に過ぎないのかもしれない。いきなり全てが変わったように見えて、なにもかもまっさらになったようで、そうではない。最後のシーンで亜紀の手紙を読んで泣く令子、勝沼との息子である清高。有馬にとっての亜紀も、亜紀にとっての勝沼も、いつかは未来であり、光だったはずだ。繋がっていないようで、ちゃんと繋がっている。でもバッドエンドじゃない。過去に留まらず、業を繰り返しながら、2人ともそれぞれの人生を歩んでいく。それが生きるということ。

たらればなど人生にはない。単純な業の連続に巻き込まれて、みんな生きている。この世には「どうしようもなかった」ことがあまりに多い。だから、過去に執着すればするほど苦しくなる。辛くても悲しくても悔しくても、前を向くしか私たちには生きる術がない。業を止め、どこか一点に留まってしまったとき、人生は終わりを迎えるのだと気がつく。
由加子が死んだのも、有馬が生き残ったのも、蔵王のゴンドラに2人が乗り合わせたのも、全て偶然ではなく必然だった。
全ての事象は起こるべくして起こっている。私が今ここにいることも、今こうして生きていることも。

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