タイーホ
たぶん自分でサッと見えるものでは無いから、お尻の穴を見られるのが恥ずかしいという側面はあると思う。
排泄にまつわる器官というだけでも相当なタブーを感じているうえに、いざ見せるとなった時に、すぐに状態が確認できない。
手のひらであれば「ちょっと手見せて。」といわれた時に"今日は乾燥して荒れているから嫌だな"とか、逆に"今日はさらさらで状態が良いな"とか状態を把握できる。
しかし、お菊ちゃんは手鏡でも使わない限り自分で状態を視認できない。
そのくせ相手からは丸見えである。
「ちょっとお尻出して。」といわれた時は、手を見せる時とは比較にならないほど躊躇してしまうだろう。
しかし、それに反して、手を見ようとしてくる人よりお菊ちゃんを見ようとしてくる人の方が、執拗で頑固なことが多い(はず)。
自身が見せても見せなくても良いものは、他者もそれほど強く反応しない。
しかし、見せたくなければ見せたくないほど、他者は興味を示したり、強く拘ってきたりする。
街を歩いていて全体をじろじろ見られても別に何とも思わない。(多少訝しくはあるが)
しかし、いざお菊ちゃんとなると恥ずかしい。
この事は、音楽という表現に於いても言える。
楽曲や歌を聴いてもらったりする分には問題ない(というか嬉しい)のだが、
特に歌詞をピンポイントで取り上げられたりすると恥ずかしさがある。
仕上がったものの全体としての像は、それこそ自分の化身であるといえる。
故にその一部をまざまざと見られたりすると、時に恥ずかしくなったり、照れくさくなったりする。
けれど、そんな細部までまじまじと見てもらえる喜びや、時に自分で気に入った一説などはもっと見て欲しくなったりもする。
そう。正直に言うと嬉しいのである。
自分でも気づけていなかった自身の一部。
自分では見えない事も内包し、言葉や音の響きとして作品に宿る。
時に無意識化に忍び込んだそれを、見つけてもらい、評価してもらえた時に、自分では気づかなかった、または目を逸らしていた大切な事に気づき向き合えるようになったりもするのだと思う。
そうか。
分かった。
私は露出狂です。
お巡りさんここです。ここに居ます。
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