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【子連れ狼】私的セレクション/其之七十一「邪鬼をはらう日」

#マンガ感想文 #小池一夫 #小島剛夕 #時代劇画 #不朽の名作 #キリシタン殉教

五月五日、言わずと知れた端午の節句の日である。町家のあちこちには鯉のぼりがはためき、軒先には菖蒲の花が草ごと吊るされている。

そんな中、大五郎は町人の男の子達と他愛ない遊びに興じていた。額に菖蒲の葉を巻き、それを取り合うというものである。しかしあっという間に皆の葉を取ってしまった大五郎は、町人の子ども達から走って逃げる間に、ひとりになってしまう。

町中をひとりとぼとぼ歩く大五郎を、先ほどの男の子達が取り囲み、手に持った柏餅を、これ見よがしに食べ始める。台詞はないが、  「何だよおまえ、柏餅も食えねえのかよ」  と、先ほどのお返しだと言わんばかりに勝ち誇ったような顔をして柏餅を頬張り、残った柏の葉を大五郎に向かって投げ捨て、去って行く。

もとより飢えには慣れている大五郎だったが、ふと見上げた風になびく鯉のぼりが柏餅のように見えた大五郎に、両掌に柏餅を持った愛らしい童女が、無言のまま、笑顔で片方の柏餅を差し出す。童女は桃割れに髪を結い、肩までかかる長い後ろ髪をまだ結わえずに垂らし、町人にしてはかなりいい身なりをしており、どこかの商家の娘のように見えた。

童女に連れられ、大五郎が柔らかな草の生い茂った川辺までやってくると、ふたりはそこに腰を下ろし、並んで柏餅を一緒に食べる。

柏餅の食べ方を知らない大五郎は柏の葉まで食んでしまうが、童女は大五郎の口から柏の葉を取り出してやる。そして柏餅を食べ終えたふたりは談笑すると、童女は懐から何かを取り出し、それを首にかける。

それは、上等な彫金風の十字架のペンダント。童女は、隠れキリシタンだった。そして童女は歌い出す。

《ま~~~いろうや~~~参ろうや~~~パライソの寺に~~~参ろうや~~~パライソの寺とは申すれど~~~広い寺とは申すれど~~~狭い広いは我が胸にあり~~~》

それが隠れキリシタン歌のオラショ(祈祷文)であることも、十字架の意味も、大五郎は何も知らない。

しかしその頃、町中をキリシタン改めの役人衆達が疾走していた。向かう先は、呉服大問屋の平戸屋。童女の家であった。

「御用だッ」             「神妙にせいッ」

平戸屋の手代、女中、果てはまだ少年の丁稚までが次々に捕縛される。平戸屋の奉公人達はみな、隠れキリシタンであったのだ。奥座敷にいた主夫婦は逃げる間もなく捕らえられ、役人の1人が妻の懐からマリア像のペンダントを引きずり出す。そのうえ、部屋に飾っていた慈母観音像が仏像に見せかけたマリア観音であることも見破られてしまう。

そのとき、キリシタン改めの長官が、    「娘がいたはずだな/探せッ」

その言葉を聞いた途端、妻は脱兎の如く駆け出した。

娘は、川辺で大五郎と無邪気に川遊びを楽しんでいたが、

「おもよーーッ/おもよーーッ」

という母の声に、童女ーーおもよは大五郎に手を振って別れを告げようとした。しかしおもよの目の前に現れたのは、白い足袋を土で汚しながらキリシタン改めの役人衆に追われる母の姿だった。

おもよーーッ、おもよーーッ、おもよーーッ、と叫びながら娘の元に駆け寄る母は、キリシタン改め長官の手によって背中を斬られ、断末魔の悲鳴のようにおもよーーッと叫び、娘をその腕に抱きながら、血まみれになって川岸まで転げ落ちた。

「こ この子を……大村の在の……百姓の……理左衛門に……」

お歯黒をつけた口から血を流しながらおもよの母が大五郎に言付けると、母は息絶えた。

かかさまッ、かかさま~ッと母の亡骸に取りすがるが、キリシタン改めの役人衆達に怯えるおもよは自分よりわずかに背の高い大五郎の背後にまわり、大五郎もまた役人衆をなかば睨みつけるように見すえ、おもよを守ろうとする。

『かしわ餅一つの縁(えにし)であった』と、大五郎の心中が背景に記されている。

次の場面では、平戸屋の奉公人達がキリシタン改めの役人達に捕縛され、一列になってしょっぴかれる様と、彼らを嫌悪とも同情ともつかない表情で遠巻きに見つめる野次馬達の群れ。その群衆の中には、拝一刀がいた。

代官所に連れて行かれた平戸屋の奉公人達は、そこで代官とキリシタン改めの役人衆の監視のもと、踏み絵を強いられる。       

「踏め/踏まねば水磔(すいたく)にかけるぞッ」

キリシタン改めの長官はそういって1人目の男に凄むが、いうまでもなく男は踏めず、というより踏まず、

「よし死罪」

と、そっけなく言い渡す。

次の女は、命惜しさに思わず踏み絵をしそうになりかけた爪先を引っ込め、お許しを、といいながらひざまずいて板絵に口づけし、その女も、次の者も、その次の者も、死罪を言い渡される。

そしてついにおもよの番となるが、彼女もまた幼いキリストを抱いた聖母マリアの姿が彫られた板絵を踏もうとしない。

「それを踏まねば死ぬことになるのだぞッ」

と役人に叱りつけられるが、おもよもまた死罪となった。同じく踏み絵を拒んで先に死罪を言い渡されていたおもよの父が、娘の名を叫ぶ。

「ととさま~~~ッ/ととさま~~~ッ/かかさまが~~~ッ」

と、それまで気丈だったおもよは父の姿を目にするや否や、泣きながら父に訴える。父は、

「か かかさまはな/一足先にパライソのお寺に行ったのじゃ/わしらもな……いっしょにパライソのお寺に行くのだな……/かかさまが待っているからな……」

父の涙ながらの言葉に、おもよは涙を流しながらも、笑顔でうン、と答えた。奉公人達はみな、主人とまだ幼いお嬢様とのやり取りに、涙を禁じ得なかった。

次は大五郎の番だったが、キリシタンでもなければ踏み絵の意味もわからない大五郎は、あっさり踏み絵をする。

大五郎が平戸屋一同と無関係とわかったキリシタン改めの長官は配下の役人に、大五郎を代官所から追い出すよう命じる。しかしおもよに柏餅の恩がある大五郎は、その場を動こうとしない。しかし下っ端の役人に無理やり代官所の門の外に引きずり出され、頭に拳骨を食らった大五郎は、外に向かって駆け出した。

行き着いた先には、箱車を押した父、一刀がいた。

向かい合った父子は、短く言葉を交わす。

(頼まれたことを果たすというのだな……) (おおむらざいの……りざえもん……) 

ーーその日の夕刻、大戸屋一同は処刑を執行されることとなった。

お縄になったときと同様、捕縛され一列に役人達に引き連れられて行く先は、海。

寄せては返すを延々と繰り返す波ーーその岸辺にいくつも建てられた磔台はすべて逆さまで、大戸屋一同は一人一人、縄で磔台に緊縛される。もちろん、磔台同様逆さまに。

やがて満ちてくる波に、彼らは首から下までを海水に浸され、水死する。しかし波が満ちる夜までには、まだまだ刻を有する。

これが水磔(すいたく)という、残酷極まりない死刑である。さらに逆さまにした磔台は逆さにした十字架に相当し、逆さまの十字架は悪魔を崇拝することの意味合いもあり、キリシタンにとってこれ以上の屈辱はない。

さらに頭を下にされ、逆さにされた人間は心臓に血液が行かなくなり、重度の高血圧となって2~3時間で心不全または脳内出血を起こし、眼圧が上がって視界不良となり、気を失ったまま死に至るという。

(注/上記の話は現代の医学でもまだ詳細は明らかにされていない。脳内出血による死亡例はないとの話もある)

やがて辺りが夜の闇に支配されると、大戸屋一同の頭に海水が近づいて来る。そして彼らは誰ともなく、昼間、おもよが歌っていた隠れキリシタン歌オラショを歌い出す。      

《ま~~~いろうや~~~参ろうや~~~パライソの寺にまいろうや~~~パライソの寺にまいろうや~~~パライソの寺とは申すれど~~~せまーいひろ~いは~わが胸にーありーー》

死を悟ったおもよの父は、声の限りを尽くし、おもよーーー、おもよーォーー、と、娘の名を呼ぶ。しかしおもよは、すでに意識を失っていた。その様を見たキリシタン改めの役人衆は、

「ふン/死に際に歌を歌う吉利支丹どもめが」

と、憎々しげにつぶやく。

歌声はまだ続いている。

《パライソの寺にーーまいろうやーー》

しかし、その一節が最後となった。彼らは恐らく満ち潮を迎えて顔から下が水没して溺死するより先に気を失い、あるいは心肺を初めとした臓腑を先にやられ、そのために死を迎えた者もいるだろう。

それからほどなくして、満潮を迎えた岸辺に拝父子が夜の闇にまぎれて、おもよの磔台に近づいて来た。一刀は箱車に仕込まれた槍を使い、おもよを磔台からとき放ち、大五郎とともに彼女を救出するものの、時既に遅しーー。

箱車の中に横たえられたおもよは、意識が朦朧とする中、大五郎に遺言を残す。

「…………行くのよ…………パライソの……お寺に…………」

おもよはそのまま、まぶたを閉じた。

ーー垂れ下がった大量の藤の花が咲き誇る道を、拝父子は箱車におもよの亡骸を乗せ、進む。

「おおむらのざいの…………りざえもん…………おおむらのざいの…………りざえもん…………」

死に際のおもよの母に、おもよの身を預けて欲しいと頼まれた、その先を忘れまいとするように、大五郎はその言葉を繰り返す。

おもよの母は生きて娘を理左衛門なる百姓ーー恐らく、母の生家の下男だろうかーーに預けたかったのだろうが、それは叶わなかった。

ラストの背景に記させれた一文にはこうある。

『端午の節句/この日は明日の幸せをねがって邪鬼をはらう日である/だがこの父子はいったいどんな邪鬼をはらったであろうか……』

この一文を読む限りでは拝父子は何の邪鬼もはらっていないかのように思えるが、公儀介錯人の地位にあった拝家の再興と、打倒柳生一門を願い、生きながら冥府魔道を進む一刀と大五郎と、おもよとその両親が御禁制のキリシタンとして神の国たるパライソの寺に参るため、過酷な殉教(マルチリ)の道を選んだのは、形こそ違えど、その根本にある意思は同じだったのではないかと思う。

「みこころが天に行なわれるとおり、地にも行われますように」

と、パライソの寺に親子3人で参拝したおもよとその両親が、拝父子の悲願達成と、彼らが生きるため、例え悪人といえど人を殺め続けねばならない、その業に対する救いを乞うたのではないかと、そう願わずにはいられない。

©️小池書院/キングシリーズ漫画デラックス全⑳巻/電子書籍あり





















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