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【蔵六の奇病】底知れぬ痛みと癒しが描き尽くされた怪異譚の最高傑作

#マンガ感想文 #日野日出志 #村社会 #異端者の排除 #メタモルフォーゼ #六兆年と一夜物語  

名も無い時代の集落の 名も無い幼い少年の 誰も知らない おとぎばなし        産まれついた時から 忌み子 鬼の子として その身に余る 罰を受けた

主人公の蔵六は、百姓家の次男ながら畑仕事はいっさいせず、日がな一日絵を描いたり、ぼんやり物思いにふけって暮らしている。

虫や小鳥、花やミツバチなど自然界の美しいもの愛らしいものを愛でる心を持っているが、彼は重度の知的障害者であり、そんな弟を兄の太郎は毛嫌いし、両親は常に兄につらく当たられる蔵六を庇う。

ある日、蔵六は顔中に七色のでき物が吹き出す謎の病を発症する。

そのでき物はじきに体中に広がり、全身が異様にむくみ始め、三人もの医者の進言で村はずれの森の奥にあるあばら家に隔離されることになる。

その森には「ねむり沼」と呼ばれる、死期の迫った動物達が集まり、真っ黒なその沼には、朽ち果て、腐乱し、蛆の湧いた死骸が浮き、それをどこからともなくやってきた無数のカラス達が腐肉をつつく餌場となっており、村人達からは忌避されている。沼のほとりには、有象無象の獣の骨が積み上げられている。

やがて梅雨が訪れると同時に蔵六の病は悪化し、全身のでき物からは七色の膿が流れ出し、下腹部が異常に膨らみ出す。

その頃村は田植えの時期で、村人達は蔵六の病は助からない、働かないで絵ばかり描いていた罰だと、雨の中笠をかぶり簑を着て田植えをしながら、好き勝手に陰口を叩く。私は農家の孫なので、稲作がどれだけの重労働なのかは知っている。水田に入り両足を泥にとられながらの田植えという農作業は、並大抵のものではない。たった一コマだが、この場面は自分達の労苦を知らない蔵六への憎悪を象徴しているように見えた。

それでも蔵六の母は連日の雨も厭わず、息子が隔離されている森のあばら家に通い続け、毎日薬と食べ物を届けてやっている。兄は鍬の手入れをしながら悪態をつき、母の献身的な行いを決して快く思っていない。そして父は複雑そうな顔をしてそのやり取りを見つめるだけで、無言ーーいわば、空気だ。

蔵六は恐らく絵画に非凡な才能を発揮するサヴァン症候群なのだろうが、舞台である昔話の時代においてはただの厄介者、穀潰しでしかない。兄の太郎は現代では「きょうだい児」だ。

梅雨が明ければ、夏が来る。その頃には蔵六の病はさらに悪化し、生き腐れの体からは蛆が湧き蝿がたかり、森の奥から村にまで凄まじい悪臭が漂うまでになっていた。当然、村ではその話で持ちきりになっており、夏の終わりには蔵六の身は痩せ衰え、餓鬼そのものの姿になり、七色の膿まで嘔吐するようになる。

それでも蔵六を見捨てることの出来ない母だったが、「これ以上この森に出入りしたら村からでていけと村の衆にいわれとるだぞ!」と、兄に叱責される母の姿を目の当たりにし、蔵六はあばら家の中から一粒の涙を流す。しかし母への思慕に、森の入り口から村人達の前に姿を現してしまった、今や完全な異形と化した蔵六の姿に恐れおののいた村人達から情け容姿なく石を投げつけられ、蔵六は号泣しながら森へ逃げ帰るしかなかった。

「おっかあのためじゃかえってくれ蔵六よ かえってくれたのむだっ」

という、母の涙ながらの訴えを聞くしかなく。

そして秋が来た。蔵六はもう母が訪れることもなくなったあばら家に住み続けているが、ついに肉体の腐敗は両眼にまで達し、蔵六は完全な盲目となった。

死なない 死なない僕は何で死なない?   夢のひとつも見れないくせに

ーーついに冬。吹雪が吹きすさみあばら家の茅葺き屋根と森中に大雪が振り積もっても、それでも蔵六は生きていた。一方、村の男衆達は春が来る前に蔵六を殺す相談をしに庄屋の家に集い、庄屋の翁は男衆達を穏やかに諭すものの、彼らは聞く耳を持たず、吹雪の中出陣の太鼓を勇ましく鳴らし、簑を着て面をかぶり、竹槍を持って討伐隊を組み、蔵六を殺すべく森へ向かう。その中には、兄の太郎も含まれている。

ここで男衆達が全員面を着けて出陣するのはただの儀式的装束の一部ではなく、面をかぶることによって鬼神の化身になりきることで蔵六を殺す罪悪感を少しでも薄くするための大義名分とすることと、村社会特有の同調圧力の忖度を感じてしまう。

道なき雪道を踏み進み、男衆達がようようあばら家にたどり着くと、そこに蔵六の姿はなかった。何が何でも蔵六を見つけ出し、殺そうと躍起になる彼らの前に、深く降り積もった雪の下から思いがけないものが現れる。

それは七色の甲羅に身を包んだ巨大な亀だった。そのあまりの美しさに、殺気立っていた男衆達も「おおっ」「なんという」「美しいカメだ」と、感嘆の声を上げる。亀の両眼からは真紅の涙が流れており、亀はそのままねむり沼の中へと沈んでゆく。男衆達はまったく気づいていないが、読者にはこの亀が蔵六だとわかる。

大御所作家の名作に私ごときド素人が考察するなどおこがましいどころの話ではないが、七色の甲羅の亀が流す真紅の涙は、血の涙。血の涙を流すほど受けた蔵六の心の痛みだ。身体的にも物理的にも「悪いものを絞り出す」という意味で「膿を出す」と表現される。蔵六が吐いた七色の膿もまた、彼の心に蓄積した悲しみの澱みのすべてだったのではないか。

蔵六の病は奇病などではなく、人として生きることを許されなかった彼が誰にも傷つけられることなく生きられることを願ってのメタモルフォーゼの過程だったと、私はそう思う。蔵六は死んで亀に生まれ変わったのではなく、生きながら亀に姿を変えたのだ。

仏教の言葉で「盲亀浮木」なる言葉がある。「非常に稀なこと」の例えだという。そして頭、前足後ろ足、尾を甲羅の中に収められることから、亀は古語で蔵六。

死の季節である冬が来る前に(=死期が迫る前に)蔵六が盲目となったのは、生きながら美しい亀に変化する奇跡の予兆だったのかも知れない。

知らない知らない僕は何も知らない     これからのことも君の名も         今は 今はこれでいいんだと        ただ本当に本当に本当に本当に思うんだ

©️単行本/マガジン・ファイブ「地獄の子守唄」収録/電子書籍「日野日出志大全集1」収録








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