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【短編】ゆめがさめない

犬を散歩させるとき飼い主はリードをつける。牢獄では囚人に足枷を嵌める。賑やかな場所では親は子供と手を繋ぐ。宝物は鍵をかけて保管する。恋人たちは愛し合い、肩を寄せて街を歩く。どれも理由は同じもの。


とある街に貧しい少女が住んでいた。名前は無い。両親からは「おい」とか「お前」とか「クズ」と呼ばれていて、後は叩かれるか物を投げつけられるかで呼ばれていた。
ある日少女がいつものように口の周りを血の味にさせて、目を腫らせ、耳を抑えながら腐った牛の毛皮にくるまって夜を過ごした時、夢を見た。
暗い森の中。なんだかジメジメしていて気味が悪い。しかし寝床とあまり変わらないからか、案外居心地が良かった。少女は歩き出した。宛もなくただ歩いた。
「君は誰だい?」
どこからか声がした。
「上だよ」
見上げると、木の上に少年が立っていた。皮の靴に茶色のズボン、黒色ベルトに真っ白なシャツ。アイロンがよくかかっていて、青い瞳と金色の髪によく似合っていた。
「見かけない顔だね。君は誰だい?」
少女は首を捻った。
「君だよ君。他に誰もいやしない。そのボロボロの雑巾みたいな服を着た君だよ。君の名前は?」
少女はまた首を捻った。
「口がきけないのかい?」
「違うわ。名前が無いだけよ」
「フフフ、汚い声だね。死にかけのハイエナみたいだ」
少年は笑いながらそう言った。少女は顔を真っ赤にして下を向いた。少女は両親の前ではあまり喋らない。口を開けば叩かれるからだ。痛い思いをしないようになるべく口をつぐんでいる。
「あぁ、ごめんよ。恥をかかせたね」
「あなたは?」
「僕かい?僕はダンダンだよ。この森に住んでるんだ。」
「変な名前ね」
「君が言うなよ、名無しちゃん。そうだ、僕が名付けてあげようか。そうだな、マールは?」
少女は首を縦に振った。
「よし、マール。君のことを話してくれないか?君の人生の話を。君の両親や住んでいる所、友達や学校のことを。」


両親。
顔は真っ黒で塗りつぶされている。仮面を被っていると言ってもいい。狼みたいに口が大きくて、鷹みたいに爪が鋭い。まるで悪魔みたいな風貌だった。少女はどうしてもその顔を思い浮かべることができなかった。したくなかったと言ってもいい。
今日のことだった。男の悪魔の書斎の掃除をしている時、悪魔が大切にしている知恵の輪を入れておく箱の鍵を、小さな隙間に落としてしまった。少女はあるだけの知恵を振り絞ってどうにか取ろうとしたが、できなかった。鍵は鉄で出来ていて、針金を引っ掛けるような穴とか金具は付いておらず、何もできなかった。悪魔が帰ってきた。いつものように仕事終わりに知恵の輪を楽しもうとしていた。本棚の一番上を手でなぞって鍵を取ろうとしていた。しかしそこにはない。悪魔は目を赤くした。少女を呼び付け、力いっぱい殴った。その瞬間、少女の唇は裂け血が飛び散った。少女は痛みで涙を流しながら、鍵の在り処を指差した。悪魔は磁石を使って鍵を取った。
「おいクズ。これは取れたからもう許してやる。今度こういうことがあったらもっと痛い目をみるぞ。罰としてお前にはこれからトイレ掃除をやってもらう。いいな、手袋なんかするんじゃないぞ。勿体無いからな。洗剤も使うな。糞を爪で剥がし取れよ。もう行け!」
女の悪魔に便器を舐めさせられた。それから耳に穴を開けられ、その血を拭かせられた。ポタポタと床に血が垂れていく。少女は耳の傷が乾くまで、何度も何度も床の血を拭った。

住んでいる所。
悪魔の住処は街の一等地。でも少女の住処はまるで牢屋だった。床には何も敷かれておらず、ささくれた木が張り巡らされていて、扉には重厚な鍵が七つも付けられている。他には腐った匂いのする牛の皮、鎖、錆びたクッキー缶だった。この缶はトイレとして使っており、毎朝悪魔の起きる前に捨てに行くのがルールだった。それから綺麗な外用の洋服に着替え、匂い消しの香水を付け、髪を梳かし、買い物に行く。市場では買うものが書かれたメモ紙を見せ、買い物をする。そうして家路に就き、キッチンに食材を置き、ストーブに薪をくべて、部屋に戻る。しばらくすると悪魔たちが目を覚まし、私の部屋の前に朝食を置く。だいたい残飯や余り物、それから水だった。

友達や学校。
友達なんていない。学校にも行っていない。行きたくないって言ったら嘘になるけども、少女は家から一歩も出られない。だから行けない。友達は強いて言うなれば、買い物に行く途中に出会う浮浪者のベンさんだけ。彼は言葉が話せない老人で、いつも橋の下で毛布に包まり寝転んでいる。ベンは少女を見るといつもくしゃくしゃの茶色い帽子をとって会釈をし、微笑みかけるのだった。少女の繋がりはそれだけ。


「酷いね」
ダンダンが言った。
「でもこれが当たり前なの」
「まるで奴隷じゃないか。奴隷以下だよ。奴隷ってのは、足枷は嵌められているけれども、主人からちゃんと食事は与えられるし、専用のトイレだってある案外いい暮らしをしているものさ。でもマールは違う。犬以下の扱いを受けている。酷い有様だよ」
「でもしょうがないのよ。これが私の姿だし、生き様だし、人生なのよ」
二人は木の上と下で睨み合っていた。遠くの方で何か物音がした。
「あぁ、アイツだ。」
少女は身震いした。足の先から凍っていくような感じだった。
「僕はアイツを倒さなくてはいけないんだ。それが僕の運命なんだ。アイツはこの世界を消すために生まれた怪物だよ。僕達を殺しに来たんだ。さぁ、早く木に登って。この上に隠れるための樹洞があるんだ。」
少女は木に足をかけた。蔦を伝ってのぼっていく。手のひらが痛かった。

気が付くといつもの部屋だった。少女はいつもの様に買い物に出かける準備をした。ベンと会釈を交わし、市場へ行き食材を買う。毎日毎日新鮮なものを食べるのが体に良いと悪魔たちは言っていた。帰り道、少女はアイスキャンディー屋を見つけた。寂れたワゴンでお婆さんがアイスキャンディーを売っている。暇そうな顔で欠伸をしていた。少女はアイスキャンディーを食べたことがなかった。夏になると少女と同じ位の歳の子がワゴンに群がって、むしゃぶりついているのを見ていた。どの子も笑顔で、「美味しい」「甘い」「冷たい」「最高だ」と言っていた。
誰かが少女の肩をポンポンと叩いた。振り向くとベンだった。
ベンはポケットから銀貨を取り出し、少女に渡そうとした。少女は首を横に振って断ろうとした。けれどもベンは引いてくれやしない。ベンは少女の手のひらを掴み、銀貨を 1 枚握らせ、橋の下へと消えていった。
少女の足は自然とワゴンの前に吸い寄せられていった。お婆さんが珍しそうな顔をしている。
「いらっしゃい。お嬢ちゃん、どれがいいんだい?」
しゃがれた声。年寄り特有のニオイがした。少女は指差し、ピースサインを作った。そして、一番安い白いアイスキャンディーを二本受け取った。それを持ってベンの所へ走った。ベンは毛布にくるまり本を読んでいた。とても古い本でベンの指と同じ色をしている。端っこはボロボロに傷んでいて、でもベンは大事そうに読んでいる。日焼けた表紙に薄っすらと文字が書かれている。『ゾーナムゾーナム』。そう書いてあった。ベンは少女からアイスキャンディーを受け取ると、少女にその本を差し出した。少女は首を横に振る。ベンは指を 1 つ立てて、頷いた。一回だけでも読んでごらんなさい。そう言っているようだった。
家に帰ると女の悪魔に頬を叩かれた。約束の時間よりも少し遅れてしまったからだ。少女は部屋に押し込められた。服の下から本と余った銀貨を取り出すと、牛の革の下に隠した。
また、夜が来た。今日は男の悪魔は家に帰ってこなかった。少女は安心して夢へと落ちていった。

「大丈夫かい?びっくりしたよ。何で手を離してしまうんだよ。まぁ、どうにかウロに嵌ってアイツには見つからなかったからいいものの。」
腰をさすると少女は立ち上がった。
「僕の家に招待するよ。もう今日は遅い。月も出てるし、空気も冷たくなってきた。マールは嫌いな食べ物とかあるかい?」
少女は首を横に振った。
「なら良かった。トマトとウミウシのスープがあるんだ。きっと喜んでくれるよ」
二人は森の中を歩いて行った。
森の中は静かで音がない。フクロウも気持ちの悪い虫もいない。ただジメジメした空気と、沢山の蔦が絡まった樹木があるだけ。遠くに明かりが見えた。
「あれが僕の家。母さんがいるんだ。あと、ソンソンも。あ、ソンソンってのは、黒い犬だよ。可愛くはないんだけど、母さんが森で拾ってきたんだ。母さんは厄介な人でね、色んな物を拾ってくるんだ。この前は飛行機の模型、その前は黒い鳥だっけな。その鳥は囀ることを止めなかったから、うるさいって言って母さんが森に逃がしたんだ。」
家に入ると温かい暖炉があって、絨毯があって、蝋燭があって、犬がいて、お母さんと呼ばれる人がいて、ピアノがあって、何やら見たことのない楽器もあって、綺麗なカレンダーがあって、とにかく色んな物があった。少女は見たことのない楽器の前に立った。
「あぁ、それかい。それはこうやって弦を弾いて音を出すんだ。母さん、これなんて名前だっけ?」
「琴だよ」
「そうだそうだ。琴って言うらしいんだ。これも母さんが拾ってきたんだよ。さぁ、ソファに座って」
少女は真っ赤なソファに座った。お尻が沈んでいく。コレほど柔らかいものに出会ったことがなかった少女はその柔らかさに戸惑った。いつもは硬い木の床で、それしか触れたことがなかったから、驚いた顔を隠せなかった。
「母さん、聞いてくれよ。この子、マールっていうんだけど、親から・・・」
ダンダンは母親にマールのことを話した。母親は涙を流し、マールの頭を撫でた。それはソファーよりも柔らかく温かかった。
「マール。スープをお上がり。ウミウシとトマトが入ってるんだ。今朝、採れたばかりの新鮮そのもの」
少女は木のスプーンで掬って、口にした。

朝が来た。
少女は日課を済ませ、部屋に篭ると、昨日ベンから貰った本を開いた。
「クズ!さっさとこっちへ来ないか!」
目次にすら目を通していない本を閉じる。ドアの前に行き、扉を開けた。すると怖い顔の悪魔が立っていた。
「ふざけるなよ。どうして食材の金をくすめたんだ?言ってみろ」
何のことだかさっぱりわからない。すると頬に痛みを感じた。血の味が広がる。
「どうしてお前の服にお金が入ってるんだ!これはくすめたんだろ。この泥棒め!」
今度はおなかを殴られた。蹲る少女。うめき声しか出なかった。昨日、ベンから貰った銀貨で買ったアイスキャンディーのお釣りの 1 枚を服に取り残していたようだ。それを悪魔が発見してしまった。
「クズのくせに泥棒までしやがって。いいか、お前は俺達の言われたどおりに動けばいいんだよ。わかってるのか?こっちはお前のために飯まで作ってやって、服も着せてやってるのに、どうして仇で返そうとするんだ。いいか、今日はもう飯はやらん。アイツにも言っておく、さっさと立って部屋へ戻れ!」
這いつくばって部屋に戻るしかなかった。少女は牛皮に身体を包み、ぼんやりと目を閉じた。


ダンダンは着替えて私を外に連れ出した。どうやらこの森には朝はやってこないらしい。
マールとダンダンは森にある一番高い木に登った。その上から見える景色は、星空で闇に包まれている森の上に被さっていた。どこまでも広がる黒い森。その上には素晴らしい世界が広がっている。
「ここ、僕のお気に入りの場所なんだ。父さんに教えてもらって」
「あなたのお父さんはどこにいるの?」
「死んだんだ。アイツに殺された」
「怪物?」
「うん。僕がまだ小さい頃、母さんと僕を守って。怪物がいきなり僕達の家にやってきて、鉈を振り回したんだ。刃の鋭い大きな鉈でね。今でも覚えている。父さんは怪物を外におびき出し、森の奥へ消えていった。次の日、家の裏を流れる川が赤く染まっていて、父さんの帽子が樹の枝に引っかかっていてね。あの怪物が父さんを殺したんだ。真っ黒な気持ちの悪い目をして、毛がボサボサで。」
ダンダンの声が震えていた。少女はどうすることもできず、じっと星空を眺めていた。ここは平和だ。でも寂しい。誰も居ないような気がする。
「昔、父さんから聞いたことがあるんだ。怪物の正体とこの世界の本当の真実。」

おなかの痛みで目が覚める。どうやら今日は買い物に行けそうにない。小さな窓から見える外の公園の時計は、もう八時を指していた。悪魔たちが起きてくる。足音が階段を上ってくる。少女の部屋の前で止まった。七つの鍵を外す音が部屋に響き渡る。また殴られると思い、身を竦めた。
「おい、何かあったのか?」
優しい声が聞こえてきた。少女は心臓が落ち着き、悪魔の顔を見た。黒くない。ヒゲが見えた。少女はおなかを押さえた。
「腹痛か。昨日俺が殴ったのが悪かったのか。ごめんよ。お金のことはもう解決したんだ。そうだ、病院に連れて行こう。さぁ、外用の服に着替えなさい。その前にシャワーを浴びて。」
家の前に馬車が止まった。少女は初めて馬車に乗って、ヒゲの男とメガネの女と一緒に病院に行き、薬をもらった。その帰りに、メガネの女が少女に言った。
「昨日のお金の件は、あなたのせいじゃなかったのね。」
少女は家に着くと、自由な時間を与えられた。外出もできる。銀貨二枚の小遣いを貰えた。
少女はおなかが痛かったけれども、自由が嬉しくて街に出た。時間も買うものも制限されていない自由な街。初めてだった。物心ついた時からあの暗い部屋と朝市だけの毎日。今は昼間だ。なんだってできる。少女は市場でお菓子と髪留めとパズルを買った。缶に入ったクッキー、カラフルなキャンディー、いい匂いのチョコレート、それから瓶に入ったミルクを二つ。一つはベンへのお土産だった。髪留めは赤と青のサイコロがついていて、とても綺麗だった。パズルは可愛い白熊の親子が描かれていた。
橋の下に行くと、ベンはいなかった。汚い毛布だけがそこにあって、少女はベンの帰りを待った。けれどいくら待っても返っては来ない。どこかに行っているのだろうか。少女は瓶と缶をその毛布に包んで、しぶしぶ家路に着いた。その途中で聞きたくないことを耳にしてしまった。
「橋の下のアレ、昨日の夜に殺されたらしいわよ。」
「やだ、怖いわね」
「なにやら、箱に詰められて燃やされたとか。口がきけないから声も出なかったんじゃないかしら。殺しやすいって言ったら悪いけれど。」
「まぁ、猟奇殺人じゃないの?酷いことするわね。」
「しかも、発見されて分かったんだけども、その箱に書いてある文字、あの一等地に住む金持ちの夫婦の職場の名前らしいのよ」
「じゃあ、もう犯人として逮捕されたのかしら?」
「それがどうやら、しらを切ってるらしくてね。全く、金持ちのやることはわからないわね。頭がイカれてるのよ。だってその夫婦、自分たちの娘を幽閉して、虐待してるらしいのよ。もう、犯人に決まってるじゃない。」
「死刑にされちゃえばいいのよ。そうゆうのはこの世から消えてほしいわね。」
少女はすぐに牛の革にくるまった。


「どうしてだ!どうしてなんだよ。どうして母さんが殺されなきゃならないんだ!」
ダンダンは叫んだ。顔が熱い。少女の目には真っ赤に染まった家が映っている。
少し前、木の上からダンダンの家の方を眺めていた。するといつの間にか赤く染まっていくのが見えた。炎を纏って森の中に明かりを灯していく。まるで宇宙に燃える太陽のようだった。ダンダンは少女を置いて木を降り、家の方へと走っていた。少女は蔦をゆっくりと降りて行き、ダンダンを捉えようとしたが姿はもう無かった。でも赤い炎はゆらゆらと見え、少女はその光に走っていった。ダンダンが家の前に立ちすくみ、黒く焦げた何かを抱いて叫んだ。
「アイツだ。アイツが来たんだ。僕が気を緩めていたから。だから母さんは殺されたんだ。」
少女はかける言葉が見つからなかった。少年は黒焦げを抱いたまま、炎が消えるまでその場で泣き尽くした。
家の木材が黒くなり、赤い糸をゆらゆら踊らせている頃、少年は不意に、その黒焦げに齧りついた。
「こう、こうするしかないんだ。もう離れないよ母さん。これで母さんも僕の一部になるんだ。もう父さんのようにいなくなることはない。独りぼっちにはなりたくないんだ。母さんは生きている。僕の中で生き続けるんだ。もう大丈夫。僕は大丈夫。大丈夫。平気だよ母さん。僕は一人じゃない。もう何も失いたくない。あの怪物を一緒に殺そう。母さん、一緒に父さんの敵を討つんだ。苦いよ母さん、苦いんだ。本当に苦いんだ。母さん、苦いんだよ。どうして・・・どうして苦いんだ。真っ黒だよ。真っ黒。大丈夫。もう大丈夫。母さん。一緒に行こう」
少年は立ち上がり、少女に手を伸ばした。

雨が降っている。コートを着て朝の日課を済ませようとした。ベンの顔を思い出す。どうしても市場へは行きたくなかった。ベンは悪魔たちに殺された。昨日のおばさんたちの話は少女の家のことだ。少女には分かっていた。
―――自分たちの朝食の時間を遅らせ、仕事の効率を悪くし、ましてや自分たちの奴隷みたいなものを誑かせ、アイスキャンディーなんかを勝手に食わせた。だから殺したんだ。そうに違いない。
少女はキッチンに行き、戸棚を開けた。
―――あの悪魔たちは怪物だ。ダンダンの両親を殺した怪物に違いない。火を着け、殺したんだ。ベン。どうしてあなたは抵抗しなかったの?でも大丈夫。きっと大丈夫。私が敵を討つから。
少女は果物ナイフをポケットにしまい、市場へ向かった。
家に帰ると、掃除ができていないということで灰皿を投げつけられた。肩に当たった。それからわざと氷水で大量の洗い物をさせられた。夕方になると男の悪魔が帰ってきて、靴磨きを口でさせられた。馬の糞が着いた靴底を綺麗になるまで舐めさせられた。そして、理由はわからないけれども、左手の親指に針を刺された。悪魔たちは少女の顔が歪むのが楽しいようで、お酒を飲みながらケタケタと笑っていた。でも少女はいつもより我慢することができた。部屋にある果物ナイフは牛の革に来るんである。
夜が来る。いつものように腐った牛の革に身体を包ませた。ナイフはポケットに移した。


「マール。僕といっしょに来てくれるかい?僕と一緒に戦ってくれるかい?」
少女は首を縦に振った。少年は喜んだ。
「僕は君を失う気がしてしょうがないんだ。君まで無くしてしまったら、もう僕はどうすることもできない。なぁ、コレをしてくれないか?」
少年は金属製の手錠を出した。少女もこの森を彷徨く中で、少年と離れてしまうのが寂しく、また少年があまりにも不幸なので首を縦に振り、右手を差し出した。冷たい金属の輪が少女に嵌められた。
犬を散歩させるとき飼い主はリードをつける。牢獄では囚人に足枷を嵌める。賑やかな場所では親は子供と手を繋ぐ。宝物は鍵をかけて保管する。恋人たちは愛し合い、肩を寄せて街を歩く。どれも理由は同じもの。
二人は一種の共同体のようなものになった。
「アイツの寝床は知っているでもここから少し遠いんだ。すぐにでも出発しよう。」
ダンダンは焼け焦げていない食料庫から少しの果物を取り出し、リュックに詰めた。
二人はズンズンと森の奥へと歩いて行く。
歩き始めてもう何日が経っただろうか。ここではずっと夜なので時間が解らないけど、大体の感覚で時間は把握できるし、おなかが空く回数と食事の回数で日数が多いのが判断できる。
少女は未だ異変に気づいてはいなかった。
「ねぇ、この間話していた、あ、思い出したくないのなら話さなくてもいいんだけど」
「なんのことだい?」
「怪物の正体とこの世界の本当の真実」
「あぁ、それか。じゃあそこに腰をおろして。ゆっくり話そう。」
少年は深呼吸をして話しだした。
「あの怪物は昔からこの森に住んでいて、僕たちの暮らしを脅かしているんだ。もともと僕たちは大きな民族でね、一つの大陸に住んでいたんだ。でも大きな戦争に負けて大陸を放してしまったんだ。海を越えて、小さな森を見つけたんだ。海でも沢山の人が死んだよ。僅かに残った人たちだけでこの森に移り住んだんだ。初めは平和に暮らしていた。食べる物も豊富にあったし、動物だっていたんだ。ある時、蓄えておいた食べ物を巡って争いが起きた。その時にニルスっていう若者が死んだんだ。原因はわからない。でも外傷もなかったし、誰かに殺されたってわけでもなかった。ニルスが死んだ次の日、どうも奇妙なことが起こり始めた。まず、ニルスの死体が一晩で消えてしまった。そして僕たちの仲間が一日一日と時を刻む間に一人一人消えていった。これは父さんの日記に書いてあったんだけども、ニルスってのが、あの怪物になったらしいんだ。」
「でも、どうして?」
「わからない。でもあの怪物は僕たちを狙っている事だけは確かだ」
ダンダンは顔を赤くして、息を切らせていた。
「それからこの世界だ。この森は人が消える度にどんどん大きくなっていく。初めは海が見えていたんだけど、今では波の音も聞こえないだろ。そしてニルスが死んで以来、朝がこない。ずっと夜のまま。」
二人はその木の根本で少しだけ眠った。目を覚ますと、またしばらく歩いた。しかし歩いても歩いても怪物の住処には到着しなかった。
「おかしいな、確かこのあたりにあるはずなんだけど。」
「一度来たことがあるの?」
「ん、まぁ、そんなところかな」
少年は言葉を濁した。
少女はふと、ベンの事を思い出した。そして自分の置かれている違和感に気が付いた。ここは夢の中なのだと。そう思った瞬間、少女はとても怖くなった。でもそれが本当かどうかわからない。
「どうかしたの?」
「何でもないわ。大丈夫」
「そう。ならいいんだけど。」
「一つ変なことを聞いてもいい?ダンダンは夢を見たことある?」
少年の顔が濁った。されたくない質問をされたかのような反応だった。それを見て少女は畳みかけるように言った。
「私、気付いたの。これ、ここ、この全ては夢なんじゃないのって」
「なにバカなことを言っているんだよこの世界が夢の世界だって言うのか?僕には信じられないね。だってそうだろ。僕とマールはずっと一緒にいるじゃないか」
少女は首を横に振った。
「どうして、どうしてだい?」
「私は違うの。私はあなたに出会ってから全てが繋がっていると思っていた。でも違うの。夢がさめて現実を過ごし、寝ると夢の世界の続きになっていて、だから」
「そっか。マールも気が付いたんだね」
少年の顔が暗く沈んだ。
「僕とマールは全く違う世界の住人だ。僕らはゾーナムの住人。つまり夢の住人さ」
「やっぱり」
「でもそれがどうしたって言うんだい?」
少女は現実の世界で起きた出来事を話した。ベンと言う橋の下にすむ浮浪者が両親に殺されたことを。
「私、仇を討たなきゃならないの」
「でも君はもう、あっちの世界へは戻れないよ」
「ダメ。私を帰して」
「君はそうやって僕から逃げようとしているんだろ。君がいなくなってしまうと僕はどうなる?独りぼっちでこの森で過ごせっていうのか?」
「大丈夫よ。私が眠れば、あなたに会える」
少年は黙り込んだ。そして力強く歩き出した。
「痛い!」
二人を繋ぐ手錠が少女の手首に食い込んだ。少女は着いていくしかなかった。
少年には思惑があった。ゾーナムの住人は現実の世界に住む人間の夢の中に生きている。例えば現実の世界で貧しい暮らしをしていれば、夢の中では贅沢三昧できるし、殺したいほどに悔い相手がいるなら、夢の世界で思う存分虐められる。ゾーナムの住人の暮らしは、現実の世界に住む人間しだいで決まってしまうのだ。
少女は寂しい暮らしをしている。しかしそれを当たり前だと思っている手前、夢の世界も寂しくなってしまう。少年はマールが嫌いだった。まず父親を殺された、次に母親までを亡くした。全てマールの頭の中で決められたこと。怪物の正体は少女だった。
少年は考えた。マールを夢の世界に閉じ込めてしまおうと。夢から現実の世界に戻るときには、一人でなければならない。そうでなければ、夢と現実の境目に引っかかってしまう。これを利用して現実の世界に戻さないよう、手錠をした。鍵は飲み込んだ。
「現実の世界に戻って何になる?」
「え?」
「君が話していたけど、あっちの世界なんて地獄じゃないか。マールにとって現実は住みやすいかい。ここに僕といたほうがいいじゃないか」
「でも私はあの悪魔達を殺さなくちゃいけないの」
「君のその考えが母さんを殺させたんだ!」
少年は声を荒げ、少女を殴った。
「あ・・・ごめん。そんなつもりは無かったんだ。許してくれ」
「大丈夫よ。叩かれるのは慣れているもの」
少女の頭には他のことが浮かんでいた。少年の望みは一人になりたくないこと、それから怪物を殺すこと。
昔一度だけ読んでもらった絵本を思い出した。平和に暮らしている海の生き物達を食べて死んだ怪物の話。怪物は隙間に隠れて海の生き物達が部屋に集まるのを待っていた。しかし海の生き物達もバカじゃない。怪物がたくさんの仲間を食べて自分たちを滅ぼそうとしているのを知っていた。だからいつ自分らが食べられてもいいように、身体に毒を塗って待っていた。怪物はそんなこと知る由もなく、生き物達に食らいついて死んだ。生き物は死んだ怪物の胃の中に食らいつき、穴をあけて脱出した。
この夢はずっと続いていて、現実の世界という区切りを入れても、コマーシャルのように分割するだけで、勝手に時間が進むわけではない。しかし少年には知ったことが無く、少女が説明をしても聞く耳を持たなかった。
「どうやって怪物を殺すの?」
「・・・わからないよ。でも殺さなくちゃ殺されてしまうだろ」
「私、怪物の殺し方知ってる。でも思い出せない」
「じゃあ意味が無いじゃないか」
少女にも考えがあった。
「部屋にあるの。昔読んだ絵本が。海の生き物達が怪物を倒す話しが。でも倒し方を忘れてしまったの。だから一度現実の世界に戻らないと。」
「そうやって嘘をついて、僕から逃げようとしているんだろ。本当だとしても、できないよ。残念だったね」
少女は信じようとしない少年の姿に落胆した。
「君があっちの世界で酷い目に遭う度に、こっちも酷くなっていく。この様を見てみてよ。わかるだろ。・・・静かに」
近くで大きな足音がした。
「ヤツだ。」
少女と少年は木の陰に隠れた。少女は初めてその怪物の姿を目にした。
足はやせ細っていてまるで木の枝みたいで、身体は老人のように曲がっていた。髪の毛はボサボサで、その隙間から見える目玉は黒く、子犬のようだった。一見、気味が悪いが、そこまで怖がるような程でもないと少女は思った。しかし手元には大きな鉈を握っていて、鋭い刃がキラキラ光っている。口元には真っ赤な血が付いている。
少女は身震いした。
「僕はアイツを殺すよ。あいつがいなくなったら落とし穴を掘ろう」
怪物が通り過ぎると、二人は爪や指を黒く染めながら穴を掘った。手錠が邪魔で仕方なかったが、あの怪物くらいの大きさにはなった。
二人は木の陰に隠れて、怪物が来るのをまった。遠くの方から枯れ葉を踏みしめる音が聞こえてくる。ザクザクと音が近付いてくる。しかし方向は分からなかった。森の深さが惑わせていて、二人が背後の気配に気づいたのは、怪物が鉈を振り上げた瞬間だった。
「危ない!」
少年が叫び、腕を上げる。手錠の鎖が切れた。二人は両側に転がった。怪物はその反動で穴の中に頭から落ちた。少女は逃げ出した。
「待てよ!」
少年は叫ぶ。けれど、少女は聞く耳を持たなかった。少女は走った。道なんてわからない。
ただ現実の世界に戻りたいばかりに。
木のウロを見つけ、中に入った。
「覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて!」
けれどなかなか夢は覚めてくれなかった。目覚めはこない。朝もこない。ウロの中で少女はただ祈った。
ダンダンは穴を覗いた。しかしそこには怪物の姿はなかった。振り返ると、目の前に鉈の鋭い刃があり、ダンダンの首が宙を舞った。
少女は時間切れとなった。現実の世界で死んでしまったからだ。果物ナイフが無いことに気が付いた女の悪魔が少女の近くにより、ポケットを弄った。コロリと床に転がるナイフ。女は男の悪魔を呼び出し、少女を滅多刺しにした。そしてホッとした笑顔を見合わせた。
「何で?何で夢が覚めないの!」
少女は未だに気が付いていない。自分がゾーナムの住人になってしまったことを。
ユメガサメナイ。ユメガサメナイ。ユメガサメナイ。

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