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あの人の声が聴こえる

研究がなかなか進まず、気が滅入っていた。
朝起きた瞬間にもう憂鬱で仕方がない。
2年前の修論の提出に追われていた頃の精神状態とすごく似ているけど、
これから取りかかる博論はやっとインタビュー調査を始めたばかりで、
執筆という道を走ることに身体がちっとも馴染んでいない。

この研究をやることに何の意味があるのだろうか。
もっともらしく研究意義を掲げてみたものの、
こんな論文が一本ひっそりと世にでたところで、
果たして誰かが救われるのだろうか。
草花を育てたりパンを焼いたり、
家のなかをきれいに整えて好きな本をだらだら読んだり、
今みたいに非常勤とかじゃなくもっと働いてお金も稼いで、
生活を潤すようなことに時間を使ったほうがよっぽど楽に暮らせるんじゃないだろうか。

50歳になって、身体が明らかに変化しているのがわかる。
こうして人生の残り時間はどんどん減ってきているのに、
まだ研究者としては駆け出しで、
何のためになるのか確信のもてない研究に、
さらに体力と精神をさらに消耗させていく。

私の研究の根底にあるテーマは「死(生)を語る・想う」だ。
文献だけではなくて、実際の人々の声も集める。
病いや生死に関わることについて話を聞こうとすることは、多かれ少なかれ人を傷つける要素をはらんでいる。
何かのために誰かのためにと思っても、結果的に誰かを傷つけてしまうかもしれない。
そんな不確実さに怯えて、
やれば順調にスコアが伸びていくゲームのある種の「確実」に時間を費やしながら、逃避する自分を自虐して1日を終え、そしてまた憂鬱な朝を迎える日々が続いていた。

そんなもとに彼女から葉書が届いた。
正確には、彼女からではなく、彼女のご主人が届けてくれた、新年の挨拶を控えるという年末のお知らせである。
葉書のなかで彼女は、いつものきりりとした眼差しでどこか遠くを見つめている。

彼女と知り合ったのは、大学院に入って間もなくの数年前の初夏の頃、
安楽死に関するトークイベントの席だった。
登壇者たちのセッションが終わった後、聴衆からの質問タイムがあった。
彼女は、物怖じしないはっきりとした口調で、
自分がある病気のサバイバーであること、発病と再発のこれまでの経験、そして死について語る垣根をもっと取り払うべきだと語った。びりびりと大きな振動とともに、強い生命力が伝わってきた。

私は会が終わった後、衝動的に彼女のもとに走った。
この人の声をもっと聴きたいと思った。
研究計画もまだ定まっていない見切り発車だった。
彼女はその後私の研究に、言葉通り惜しみなく協力してくれた。
彼女の言葉は、その声で発せられるものも、文字となって記されるものも、

どれもとても力強かった。

私は彼女の言葉の力、その生き方にぐいぐいと引き込まれた。
そしてそれは他の人にとっても間違いなくそうだったのだと思う。
彼女の葬儀の日、駆けつけた人々の様子、追悼するSNSの言葉を見て、彼女は与えられた生を、誰かのために全力で注いで、生きようとしていたのだった。

病いとともに生きようとしている彼女から発信される言葉に動かされ、そんな彼女が、病室の孤独の中ではネットでの言葉に救われたのだと聞かされ、私はオンラインの病いの語りの世界をもっと知りたいと思った。
博論のテーマはそうして、彼女に導かれるように決めた。
だから、彼女が別の世界に行ってしまったと聞いたとき、研究の支えを失ったかのように、ふらふらとした軸のない自分になった。

私はボイスレコーダーを手にとって、記録された彼女の声を久しぶりに聞く。録音の後半には、雑談した会話が残されていた。

「論文は論文で書くとして、それもとても大変なことだけど、リアルの場でも、死生学の分野にいるあなただからこそできることがあると思うんです。誰がやるかって実はとても重要なんです。死を座学で語ったりシリアスに捉えたりだけじゃなくて、身体を通した経験とか、ユーモアっていうのも大切なんじゃないですか」

その時は、修論を仕上げるので余裕がなくて、
まだこの言葉の意味をしっかりと理解できていなかったかもしれない。
そうだ、私の研究と実践は両輪となっているから、どちらかだけではきっと進むことができない。
彼女のアドバイスに頷きながら、今の自分に何ができるのか、何がやりたいのかもう一度向き合うことにした。白紙に、思いつくままに書き込んでみる。
そうしてみると、やりたいこともできそうなこともいくつもあった。
結構よくばりだなと思った。

一度、彼女に窘められたことがある。
倫理審査がどうのこうのとかこつけて、私がなかなか生の声を聞きに行こうとしなかったからだ。
死のタブーの在り処を見ようとする私に、
彼女は、私のなかにこそタブーがあるのじゃないか、あなたはとても怖がっているように見えると言った。

今の私は、その頃の私と同じだ。
怖がって進めなくなっている。
けれども、彼女の声が後押しする。
あの凜とした眼差しで、さばさばとした口調で、

「頑張って、今も応援しているから」
と語りかけてくれているような気がする。
彼女ができる、といえば本当にできそうに思えてくる。
彼女がいなくなった後も、新しい出会いがあり、力を貸してくれる人がいる。
やっぱりできるだろう、と思う。
論文、頑張る。実践も、頑張る。
そして、彼女があんなにも熱く伝えようとしていた言葉の続きを
繋いでいけたらいいなと思う。

届いた葉書には、
「時々彼女を想い出して、何か語りかけてあげてください」
と書かれてあった。
彼女の姿は見えないけれど、
いつでもこうして彼女と会って話すことはできるし、
むしろ今の方が頻繁に彼女に語りかけ、
その声を聴いているように思う。

この先もくじけそうになった時、
きっと何度でも彼女に語りかけ、
彼女の残した言葉を思い出し続けるだろう。




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