【短編・習作】僕が続ける理由とその言い訳

 僕は、誰かを殺すことで生きている。昨日は壮年の女性を殺し。今日は目の前を歩く男を殺す予定だ。これまでに得られた情報通りに、かつ何もアクシデントが無ければあの男はあと数十メートル先の路地で死ぬことになっている。

 いつも通りの生活が続くと信じきって疑わない、それが突然終わるなんて想像外のことで、でも正義感に溢れ、それが原因で今日でそれが終わってしまう。それが今回の依頼の対象だ。何故、この男がそのような運命にならなければならないかなど、当然、全くもって知るつもりは無い。僕は僕の与えられた仕事をこなすだけなんだから。
 と、ふと思う。目の前でだらしなくその贅肉揺らしながら歩いている男をを見ていて思うのだ。あの脂肪にになった食べ物についてどのくらい想像力を働かせているのかと。
 こんなことを僕はこういう時につい考えてしまうんだ。いささか飛躍しているとは自分でも思うし、生きるとは死ぬとはなどと、殺しを専門にする僕が語るのは冗談がすぎるだろうと。

 でも考えずにはいられないんだ。それが殺しの前の一つのルーチンになってしまっていてどうにもそのように考えてしまう。ちょうど野球選手が打席に立つたびに服の袖をまくるようなものだ。誰かを殺す時、生きる為には何かを犠牲にしなければならない、と考えることは僕にとって自然な流れなんだ。

 生と死の連なり。それは食べる事だけじゃない。どこかに住み、日々の何気ない生活からして、それの連続の上に成り立っている。問題はそれが無自覚で行われていること。住居を建てる為に重機が木を倒し、土を掘り返し、ローラーで踏み固める潰し。その上からコンクリートやアスファルトが蓋をして窒息させる。それは太古より人間が続けてきた生から死への塗りつぶしだ。避けて通ることは出来ない。

 朝、起きてシャワーを浴び。軽いジョギングのあと家族やペットの見送りを受けながら仕事へと向かう。たったこれだけの事でも数え切れないほどの生を無自覚なままにその靴で踏み潰し、洗剤や熱湯が押し流している。しかし人がそれを自覚するにはその死が小さすぎたり、または遠すぎる。ほんの少しの想像力や気づきが自覚させるが、それを普段の人生の隙間に入れ込んでいける余地など多くの人にありはしない。そしてたとえ気付いたとしても日常生活のほんの小さな感情の揺らぎでしかないし、自分にはどうしようもない、無関係だ、と封をする。

 では大きな死では。たとえば誰かの死。それは確かに大きく、一時はそれによって大きな揺らぎが生じるが、それも時やがてはフラットになっていく。

 なら常に人の死を自らの行いの結果によって見ている自分ではどうだろう。答えは変わらない。いやむしろ、それが常態化した日常の中ではより微細なものでしかない。誰であっても小さな死でしかない。

 生には死が付き物だ。それは猟師や肉屋が動物を殺すのと同じで、僕の場合は誰かを殺すことによって報酬を得て、生活しているということだ。
 人と動物は違う、それはそうだ。僕が言っているのは子供じみた単なる言い訳であって、倫理や法などを無視したことであり、ちょっぴり捻くれた考えを持ち始めた子どもに、大人が優しく諭すような話題だ。

 猟師が殺すのは人間では無い。でも実際、僕は殺し、それを糧に生きている。生きるという事において同じだなどとは言えた物ではないとしても、事実そうであると言うしかない。

 ここで一つ、動物と人間との違いは何かを思い浮かべてみる。違いは感情の豊かさだ。と僕は思っている。別に動物に感情が無いと言う話では無い。犬や猫にも喜びの感情があって、それによって現れる表情が人とは違うとうだけで、それは誰もが知っている。しかし感情豊かさとなると違ってくる。

 具体的に言えば、そう、喜びや怒り、悲しみ以外の感情。特にある行為に伴って現れる感情。それは何かの死に伴って現れる罪や後悔。動物は生きるためにやった自らの行いについて罪も後悔も無い。そうでなければ自分が死ぬからだ。生と死が連続し、密接している世界ではその逡巡をしている暇なんてありはしない。

 男がいつもの店でそこの店主と会話を始めた。
 僕はそこをあえて通り過ぎて、少し離れた売店で興味の無い雑誌を物色する事とした。
 店主は紙の袋にいつものサンドイッチを詰め、男はそれを受け取りながらたあいもない会話をする。この店のサンドイッチの味は、まぁ普通だ。これといって特徴の無い、どこにでもある味だ。店構えが別段新しいわけでもなく、かといって老舗と言う程の歴史があるわけでもない。これまたどこにでもある長閑な街の風景の一つに過ぎない。男はここの常連であり、店主とも仲が良いようだった。毎回、三分から五分。長くて十分ほどの世間話をして。またな。といって別れる。
 歩道に突き出たカウンターの裏に忍ばせた小さな盗聴器は、何の得にもならない会話を拾い、僕はそこに耳を傾ける。
 昨日、何のテレビを見て、どのアメフトチームが勝ったか。ドラマの展開がどうの。と、とりとめのない会話がそこにはあった。だがそれこそが人と人との上で大切なものだ。人は、他者と何かを共有することを好む。

 共に多くの喜び、驚き、悲しみを共有し、また積極的にそうしようとするのは人間の最大の特徴だと僕は思う。そして人は文化的になるにつれ人と人の感情の繋がりと表現を深め、時に動物に対しても似たように深めていった。

 そして、そうしていくうちにある行為。殺すた事とその後のについて感情を抱くようになり、それを罪悪感、後悔と呼ぶことにした。本来、人間がここまで文化的になるまで持っていなかった感情であり、殺すことに対して後天的にある獲得し感情といえるじゃなかろうか。

 罪悪感や後悔を人間は自分だけで解消する事が難しい。それこそ共感が必要だった。そうせずにはいられなかった。告解し、慰めを得ること、許しを得て、また罰を望み、これを獲得した。ちょうど病気に対して薬があるように、後天的に獲得した感情には対処する方法が必要だったんだ。飛躍しているかもしれない。でも、僕にはそう考えずにはいられないんだ。

 男が談笑を終え、短い別れの挨拶を終えると細い路地に入り、僕もそれに続く。車に乗った仲間もそれを確認し、さりげなく路地の前に駐車させ死角を作り出す。ほんの少し明るい塗装で、少し汚したよくある乗用車だ。人通りが少ないとはいえ、誰かに見られるリスクは減らしておきたい。
 他に人が居ない事を確認すると、僕は丁度、扉を開けかかった男の背後から「やあ」と声をかけ、振り向いたところにサイレンサー付の銃で三発の銃弾を撃った。

 重要な臓器が傷ついた男は、喉から空気が漏れるような音と、小さな呻き声と共に今、しがた自分で開け放ったドアに半ばもたれかかるようにして力なく倒れ込んだ。その拍子に地面に落ちたサンドイッチの入った紙袋が水溜りに落ち、キラキラと輝く油膜の浮かんだその水を吸い上げ黒く染まっていく。この食べ物は誰かの糧になる前に駄目になった。いやこの路地にも小さな生き物は沢山いる。そいつらがなんとかしてくれるさ。僕はそう思いながら、左右を見渡してから路地に誰もいないのを再び確かめてから、男の両手を掴んで室内に引きずって中に入れて、外からドアを閉めて立ち去ることとした。男の着ているベージュのセーターが真っ赤に染まっていた。もう息はしていなかった。ドア目を向けると、さほど目立った血飛沫はついていないようだった。ゼロではないが遠目からは気づかれない程度ならまぁ良し。あとは強盗かなんかの仕業に見せかけるよう別の専門チームがやってくれる。僕の仕事はこれまでだ。あとはいつものように立ち去るだけ。

 かくして、この哀れな男の人生はここで終わりを迎えた。この男の死をもって、僕は報酬を得て、また明日を生きるというわけだ。
 このやりとりに僕は罪の意識を感じているのだろうか?というと、感じていない。なら何故こんなことを毎回、毎回、グルグルと思考するのか。それは僕が罪の意識を持っていないために、持っていたいと願っているからだという他ない。自然に罪悪感や、後悔がつきまとうならそれはそれで良い。むしろその方が良い。たとえ苦しくともそれが普通というものだ。

 この生き方以外の方法もあったことには違いはない。だけど、そう、さっきまで歩いて、自分が快適なソファーでサンドイッチを食べることを何の疑いも無く死んでいった男のような。でもしょうがない。陸から海へもどれないように、こう生きて行くしかない。

 僕は何か仕事があるたび。引き金を引くまでの間に、いちいち理由をつけて自分を納得させ。また罪悪感や後悔があるように装って。などと語って自己陶酔的なセンチメンタルに浸る人間なんだ。そしてこれは殺人者であって。罪や後悔をのない時代の人ではないと言い聞かせる為のことなんだ。殺人者でも、人でありたいと思うための長い言い訳なんだ。

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