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小説『同じだった』

    12年前に書いた小説の処女作を少し手直ししてみました。
 最初の作品ならではの、原風景。
 自分の脳味噌を絞ってみて一番最初に出てきたもの。
 そんなお話です。

 ※若干、グロテスクな精神描写があります。

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 深夜二時を過ぎた商店街。人気もなく小便と生ごみのすえた匂いが立ち込める薄暗い街路を、気のむくまま歩いていた。
 時折、新鮮な風が入りこむと夜のひんやりとした空気を思いきり吸いこむ。人の瘴気に当てられそうなこの通りも、随分昔から通いつめた親しみある道だった。色褪せた本屋の看板も、行き交う人に踏みつけられて黒ずんだで敷石も昔と変わらない。

 どれだけ時間が経っても、大阪の街は変わらないものだ。
 なぜ、今になって過去の街を訪れようと思ったのか、それは郷愁の風に当てられたせいもあるけれど、あの頃に似た迷いの中にあるからだと思う。

 二十二歳の頃も、通りのシャッターが降りると、商店の前にブルーシートを広げ、描き溜めた絵をイーゼルに並べてずっと座り込んでいた。誰かに絵を見てほしいわけでも、売るつもりでもなくて、そうすることで自分の身に何かが降りかかることを待っていた。多分、どういう風に生きていけばいいのか分からなかったのだと思う。
 
 生きることをちゃんと始めた初めの頃、取りうる選択肢は無限に思えた。 
 けれど一つ一つの可能性を塗り潰してゆくうちに、どこにも着地できずに、一つのセンテンスが終わるたびに、墜落していった。
 露天商の真似事をしていると因縁をふっかけられることも多々あったし、ひどい日には暴力に晒されることもあった。けれど、一日の中で何かしらの出来事があるだけで満足してしまうようになってしまっていた。エピソードの質を問わず、ただ体感するだけで良かった。何も起こらない、過疎な年月でなければ、それで良いのだと。
 
 商店街を歩き続けると、道ががらんとひらけた三叉路に出る。俺は右の道に行くことに決めた。右の道は白っぽく明るい街灯と、名前も知らない誰かがそこで生まれ育ったのだろうというような、やさしい雰囲気の民家が数多もある、路地が入りくんでいて、昔から歩いていて心安らぐ道だった。

 大きな通りに沿って歩き続けていると、細い路地の中に、一匹の猫がいた。暗い感情でいるときや、悪い考えに占められそうになっているときは、心を反映するように眼光鋭い野良猫とよく遭遇する。
 迷わずその路地に入ると、猫が植木鉢の後にさっと飛び込んで、姿をくらませたのと同時に、強い匂いが鼻をついた。
 強烈に懐かしい匂いで、一生のどの場面で嗅いだものか、すぐに思い出すことができなかったが、少し間を置いて、それは父と再会したあの日の部屋の匂いに似ているのだと気付いた。古くなった畳や砂摺りの壁のむっとした臭い、埃と汗。そして大量の血の匂い。

 一つのことが滑り始める物事が畳みかけて起きるのは決して珍しいことではない。けれど、あの頃の匂いに出くわした事実には驚かずにはいられなかった。ぼんやりと浮かんでいただけだったあの日の出来事は、つい昨日起きたことように鮮明に瞼の裏に蘇りはじめた。

 俺は憎んでいた。殺意を持っていたと言ってもいい。 五歳の頃、離婚してから母の実家に引き取られた俺は、祖母から父がどんな人間だったのかくり返し聞かされた。 父の名は矢嶋久志といい、普段は穏やかな祖母も父の名を口に出すときだけは恐ろしい顔をして、こう言うのだった。「久志はなあ、ほんまにえらいやつやったんや。お母さんも久志と結婚したせいで病気になってしもたんやで。あいつは山師や。おばあちゃんらも反対したんやけど、お母さんは騙されたんやな。賭博ばっかしよって、ようけ借金作ってな。あんたもあいつの血が半分流れてるんやからな。悪魔の血が」 

 それからも悪さをしたときに祖母の口から放たれる
「この家におるのがいらんねやったら、久志の家にやるで」という言葉が恐ろしく、父はこの世で一番悪い人間なのだと信じて疑わなかった。
 母は華奢で色が白く優しい人で、小学校から帰ると時折俺の手を握って静かにほほえんでいたが、調子が悪いのかいつも布団で横になっていた。
 手を握られると母のいい匂いがして、ひんやりと冷たい母の指に触れられるのは幸せなひとときだったが、それと同時に母の命は脆く、いつ消えてもおかしくないものだと思い知らされるのだった。

 そんなこともあってか、こどもの頃は湯船に浸かりながら、大きくなって父に対抗できる程筋肉がつき、強くなったら、父の家まで行って殺してやろうと考えるようになったのだった。
 しかし身体の成長がするとともに、バスタブが少しずつ小さくなっていくにつれて、最初は殺意だったのが、一発ぶん殴ってやりたいに変わり、中学に通うようになると一言文句を言ってやりたいになり、高校に通い出す頃にはそんな風に考えることもなくなっていった。

 ただ時が経って、自分はどこか欠落しているのではないかと悩むようになった。人間として、重要な何かが足りないのではないだろうかと。
 それが何であるのか分からず、モヤモヤと疑問を抱いたまま成人の歳を迎え、年齢だけは大人という歳になったとき、幼かった時分にはあれだけ憎んでいた父と会ってみたいと思うようになったのだった。
 
 山師と呼ばれていたとんでもない父。それでもたった一人血の繋がった男である父と話すことで、欠落してしまっていることを補うことができれば。 
 そう思ったのだ。
 迷うあいだに時間だけは刻々と過ぎてゆき、俺は絵を売る浮浪者同然の人間になっていった。後悔と自己への憤怒、悲しい気持ちがどんどん心臓に溜まり、深呼吸してもそれらを吐き出すことはできなくなった。これを心臓から出さない限り、堕落感に殺されてしまう。
 父に会わなければ。そう決意したのは、二十二歳の夏の終わり、蒸し暑さの中に時折、涼しく澄んだ風が吹きぬける。そんな季節だった。
 
 その日の夜、今は離れて暮らす母に電話をかけ、父の実家の住所を聞いた。母は小さくかわいらしい声で父の実家の住所を教えてくれたが
「なんで今になってお父さんに会おうと思うん、やっぱりお母さんだけやったらあかんのかな」と悲しそうに言った。
俺は父に会おうと思う理由をできるだけ簡潔に母へ伝えて電話を切った。
 
 それから週をまたいで、大阪市から電車で一時間ほど離れたところにある父の実家へ行き、父が現在住んでいるアパートの住所と電話番号の情報を得た。覚悟はしていたが、十数年ぶりに会う父方の祖父母はよそよそしく、
「ああ、久志の」だけ呟くと
 年季の入った電話帳から、父の連絡先が書かれたページをちぎり取り、俺に渡すやいなや、ピシャリとガラスの引き戸を強くしめた。
 父も現在大阪市内に住んでいるらしかった。日を改めて父に電話を掛け、会って話がしたいという旨を伝えると、次の週の木曜に会うことが決まった。父は木曜もいつ仕事上がれるか分からんから俺の部屋に上がって待っていてくれと言い、電話を切った。
 
 父の部屋は古ぼけたアパートの二階にあった。畳も砂摺りの壁も茶色く日焼けしていて、五畳半の狭い部屋に、独特な匂いがむっと立ちこめていた。
部屋は折りたたまれた布団と埃のたかった段ボール箱が隅に置かれ、小さな卓袱台があるだけの殺風景なものだった。部屋の西には大きな窓があり、夕方になるとオレンジ色の強い光が部屋に降り注ぎ、部屋の中にあるものすべてを黒い蔭に染め上げた。
 
 昼前にはアパートに着いていたので、何時間もこの部屋で父を待っていた。大の字で寝転ぶと畳に染み付いた汗の臭いがしたが、時折秋口の涼やかな風が吹き込んで、窓にかけられている桔梗の絵が描かれた風鈴がチリン、鳴った。
 黒とオレンジだけの世界に一点だけ光るガラスのシルエット。窓の外には植え込みの草花や夕餉の支度を急ぐ、家並みの明りがぽつぽつと点きはじめているのが見えた。俺はいつの間にかこの部屋の空気に馴染みはじめていることに気付いた。電話口で聴いた父の声は穏やかで、ぼんやりした中年男の声そのものだった。

 父がここに帰ってきたら最初に何を話そう。借金や過去のことを今更責めたてても意味がないし、そんな気も起こらなかった。子どもの頃は父をずっと殺そうと思っていた。そう言ったら父はどんな反応をするだろうか。

 太陽の光、畳の匂い。風鈴の音。
 脈絡もなくここで死ねたら幸せだろうなと思った。日常の中で死にたいと考えているわけではなかったし、自殺なんて選択肢の中にあり得るはずがない。他人に殺されるのもまっぴらごめんだし、よく見知った人、例えば母や祖母に殺されるのも恐ろしい。けれど、父になら殺されてもいいと思った。    
 この部屋で、血の繋がった父の手によって生きることを終わらせてもらえたらどれだけ幸せだろう、と自分の心臓に手をあてた。
 父は俺を殺すことができるだろうか。確かに記憶の中の父にはいくつかよく分からないところがあった。格闘技選手のようながっしりした体つきに、鋭い目つき。痣を作って帰宅することも多かった気がする。祖母は父の借金の原因をパチンコだと言っていたが、父と一緒に暮らしているときの俺達一家は、借金のかたに家を売り払うと、ポンとまた新しい家を買う。そしてまた借金ができるとその家を売って返済にあてる、その繰り返しだった。
 
 中古の家だったとしても、随分は金がいるはずだ。
祖母が“トバクシヤマシ”と言っていたようにカタギの人間ではないだろう。そこまで考えて俺は自分自身のことを思った。
 
 父のようにならないと、祖母に誓いながらも大人になることができなかった。心臓に激しい悲しみと憎悪が渦巻いて、俺は激しく咳き込んだ。    
 心臓を吐き出してしまいたい。心臓に穴をあけてきれいな水で洗い流したい。吐き気が止まらず、炊事場の流しにもたれかかりぜえぜえと発作に耐えていると、ミシミシと男が木の階段を昇ってくる足音が聞こえた。父が帰ってきたのだ。木製のドアが勢いよく開き、父がぼんやりとした顔でそこに立っていた。蹲りながらも顔を上げて父をじっと見る。目は決して鋭くなく、むしろ眠そうなトロンとした目をしていた。悪の権化とイメージしていた父と、目の前に立っている現実の父とはあまりにもかけ離れていた。
 
 父は「お前、風邪か?」と間の抜けたことを言ったかと思うと
「今日は忙しくて昼飯食ってないんだ。悪いけど今からメシ食うわ」と言うやいなや炊飯器から冷ご飯をしゃもじですくい、湯を沸かし、茶漬けをすすりはじめた。父は工場か何かで働いているのか、服も汗で汚れ、まっとうに働いているんだということが、痛いくらい目に飛び込んできた。
 
「話ってなんだ、えらい突然やんか」
 父はタオルで額の汗を拭うと、ぼんやり俺を見た。どうして十数年も会っていなかったのに、こともなげに接してくれることに驚いた。
 俺が敵視し軽蔑した父など、初めからこの世のどこにもいなかったのだ。むしろ今の俺のほうが幻想で作り出した父そのものではないのか。
 
 気の抜けた、毒気のない父の顔を見ていると段々苛々してきた。
 父のことを困らせてやりたくなり、俺は少し演技をしてみることにした。
「話っていう話もないけど、俺は親父のことが嫌いだった。博打に没頭していたのもお母さんを不幸にしたことも、ずっと軽蔑していた」
 
 父は何も言わなかった。
「けど今の歳になってみたら自分だって、どう大人になったらいいのか分からなかった。親父のようになるなと何度も言われたのに、フラフラしてる。真っ当に生きるのがこれほど難しいなんて、分からなかった」
「言い訳するなよ」
 父はぼそっとした声で呟いた。
「時々誰かに心臓に溜まった悪い血を抜いてもらいたいって思う」
 父の目は一気に鋭くなっていった。怒りの感情がひしひしと伝わってくる。もう一押しだ。俺は背中の後に置いて隠していた包丁を手に取り、右手に構えた。

「前から殺したいと思ってた。避けれるもんなら、避けてみろ!」
 俺は損傷しても命に別状がないと思われる肩口を狙うことにした。殴りこむぐらいの勢いで、包丁を握った拳を叩きつける。父はさすがにおそろしかったのか目をまんまるに見開いていたが、避けきれずに肩の筋肉がブツッと音を立てて切れた感触が手に伝わった。
 だが、その感触と同時に左頬に石で思いっきり殴打されたような強い衝撃が走り、倒れこんでから父に拳で殴られたのだと分かった。
 口の中が生臭い味でいっぱいになり、左側の顔面が痺れていたので口の中に指を入れてると、何本か歯が折れていた。


「どういうつもりなんや、何やってんねん。お前」
 父は俺の襟首をつかみ、もう何発か攻撃を加えようか迷っているようだったが、目に落ち着きを取り戻すと、俺の口から吹き出た大量の血を首にかけていたタオルで拭った。


「嘘をついて、親父に通じるか試してみたんだ」
 父は自分の左腕が動くかどうかを確認し、肩から流れる血を止血しながら
「俺に甘えるのはやめろよ」と少し悲しそうな顔をして言った。
 そしてしばらく何かを考え込み、長い沈黙のあと口を開いた。
 
「俺はな、今でもお前やお母さんのこと大事なんや。そりゃ昔は随分情けないことをした。だからお前が俺を軽蔑するっていうんならそれでええんや。けどな、俺だってお前が言うようにしんどくなることだってあるんだぜ。嫌なことだって。それは分かるか? あいつのことも離婚したこともだ。お前、学校にいってるのか? 逃げるなよ。俺のせいにもするな。俺は逃げないぞ、昔のことも考えない。毎日頑張って生きているだろうが」


 父は口下手ながら一生懸命に話した。
 あまり長く話すのは慣れていない風だった。
 
 本当の父はこんな人だったんのか。俺は目頭が熱くなり、涙がひっきりなしに流れた。口元の血とそれが混ざり、ピンク色の水になった。
「お前がな、ちゃんと生きないって言うんなら、殺してほしいって言うなら、俺がお前を殺してやるよ。俺はお前から逃げんぞ。心臓に何か溜まるっていうんなら血を抜いてやる、どうだ、お前が決めろ」
父は包丁を拾い上げ右手に持ち替えた。
「殺してほしい、親父に…」


 父は俺の顔を見て
「分かった」と答えると、柄を強く握り直し、俺の心臓を突き刺した。
鋭い金属の刃が胸に入り、肉を切り裂きながら滑り込んでゆく感覚、刃が心臓に到達すると大量の血液が噴き出して、それと一緒に心臓に溜まっていた怒りも、悲しみも、憎悪もすべて流れ出していくのが分かった。耐え難い激痛が走ったが、それよりも心がどんどん軽くなってゆく感覚のほうが強かった。なぜか真っ青な大海原にぽっかりと浮かんでいるような気がした。心地よい水、温かい温度。

 外はすっかり暗くなり、夜の澄んだ風が吹き込んで
 青い風鈴をチリン、と鳴らした。
 最後に父の顔を見て、俺の意識は途切れた。
 それが父の姿を見た最後だった。
 
 回想の世界で意識が途切れると同時に、俺は元いた路地に立ち尽くしていた。あの時は死ねなかった。あれ以来、父に会いたくてたまらなかった。    
 あの日の部屋がたまらなく恋しかった。
 あの幸福感、俺は一生忘れることはないだろう。
 時計を見ると、針は午前三時を指していた。電車が出るにはまだ二時間ばかり。店が開くのも、もう少し時間がかかるだろう。今の時間はどこにも行くことができない。
 俺は懐かしい匂いのした路地を抜けると、今まで歩いたことのない通りにを歩いた。時間は問題じゃない、場所も、人も。
 夜が明けるまでの長い間、俺は歩き続けた。
 

《平成二十二年五月二十五日・完結》
《令和四年十一月十三日・修正》


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