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2020/04/19

自由と責任で釣り合う天秤

責任を何ら負うことなくなにもかもを自由に動かせる時,人はそれを「自由」と表現し続けるのかについて私は興味があります。

勿論,責任ばかり負わされて実質的な自己効力感を齎さない作業をさせられている場合は,自由とは言えないでしょう。

新鮮で軟らかい脳を持った未成年の頃の我々は,身の回りの色んな理不尽に対して抗議する能力を持ちます。しかし,例えば自らが“静かながらも暴虐的な環境・風土”に置かれた場合には,その能力をうまく発揮できずに,そのうち,規範,常識,世間体と云った無価値な物事に支配され,脳みそが保身に固着してゆくでしょう。

空しいと思いませんか。

私には後悔している事が幾つか在ります。
声を上げるべき時に声を上げられなかった事。
理不尽の被害者である事ばかりに注目して,自分が理不尽の加害者でもあった事実に気づけていなかった事。

今日,noteで自身(投稿者)の学校の理不尽な伝統や行動様式に疑問を呈する記事を閲覧しました。
内容としては全面的に賛同・共感できる物でした。

そして,よくよく考えれば,私自身もこの投稿者と同じ境遇なのだと読了して考えたのです。

「伝統だから続けていい」は詭弁

私はこの投稿者と似ていて,あらゆる暴力,理不尽,差別を嫌います(たまにへまをやらかすこともありますが,そのたびに価値観を修正し,指摘を受けたいという態度でいます)。

私が学徒の頃には,最早前時代的な所謂「竹刀を叩きつけて恫喝する人間」の姿は在りませんでしたが,それでも色濃く軍隊の教練のような「伝統(詳細は省きます)」は残っておりました。

私は偶々持病の関係で,軽いもので済みましたが,殆どの同級生はその「伝統」によって酷く疲弊し酷く恫喝を受け,あるものは倒れ,あるものは地面に水溜まりができるほど汗を流しました。

私は皆のいる部屋の端の方に座席を設けられ,一部の内容を免除されつつも同じ「伝統」を行うよう強制されました。

私はこの「伝統」を経験して以来,その根本的な暴虐性や毒性と云ったものへ,トラウマティックに固執する態度を強めました。

そして学徒である期間中,常に自分の心の中で問題提起をし続けていたのです。

中には実際に世間に見える形で問題提起をする強者が居りましたが,私はそのような素晴らしい人間では在りませんでした。
酷く臆病で,そのくせプライドだけは一丁前に高い人間でしたから,その頃には既に「保身への固執」が始まっていたのです。

結局強者の問題提起でも「伝統」は崩れなかったので,私は落胆しました。そして更に「行動を起こしても無駄なんだ」という態度が強められていったのです。

その結果,私の母校でも「伝統」を含めた理不尽な風習はまだ続いています。(予言の自己成就というやつでしょうか)

年を重ねて事態を振り返ったからこそ分かった事が一つありますが,それは
その「伝統」は,予想以上に広範囲の人間を酷くネガティヴな感情に支配させていた
という事です。

卒業した今,私の母校の為に私がアプローチできる事はないか模索していきたいと強く思っています。

権利は向こうからやって来ない

自分を攻撃しようとするあらゆるものに対して手を拱いているようでは,私達は何もかもを失ってしまうと思います。

以前,ある方が「権利は自分で勝ち取るものだ」と主張していました。
まったくもってその通りだと私は思うのです。

嫌な事に対して「嫌だ」と表現できるのは確かな財産ですし,その声が大きければ大きい程事態を変えるきっかけに成りうるという事を覚えていなくてはなりません(今の状況にも通じるのかはよく分かりませんが)。
そして,“私”が声を上げるように,他者もまたそれぞれの価値観に基づいて声を上げている事も忘れてはならないと思います。
もし声が衝突した際には,アサーティブな解決方式を採る事で双方が一定の満足を得られるという事実も重要です。

改めて,私は暴力,理不尽による他者の支配を絶対に許さない。
という態度を声に出して主張したいと思います。

そして,自分自身も沢山の「声」をもとにいろんなことの改善を図る行動的な人間でありたいと感じるのです。

それでは。

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