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アンチナタリズムの考察:4/10

追記:2020/11/17
この文章には論理的でない部分,説明や根拠の不足している箇所があります。その点を踏まえて読み進めて下さい。

今週も考察や対話をしてきました。抜粋してまとめます。

まずこれ。

元ツイ主は,「抵抗不能」というテーマに関してやや冗談めかしてツイートしていたようなので,これ以上の議論は必要ないと判断した。

次はこれ。

この時はこう思っていた。勿論根気よく説明した結果わかってくれる人もいるだろうが,そもそも自分に相いれない価値観に対して嫌悪感を抱き,徹底的に理解を拒む人間に対してはどう説明していけばいいのだろうか。この話題については後のほうでまた書いている。

そして次。

ANの立場にもいろいろあるようで,中には人間だけの苦痛に限定して根絶を求める者もいる。否定はしない。
ただ「生まれた以上苦しみを被り,また誰かに与えることになる」という事実を人間(他者)にあてはめて考えられるのなら,それを動物やその他の有感生物にも当てはめられないのだろうかと期待してしまう。

その次はこれ。

世の中は本当に違って見えているのだなと改めて落胆したのがこれ。
私たちはどうしたらいいのだろう?この元ツイ主に会って何時間でもこの件について問いを投げかけたくなる。

次はこれ。

これがわかったからといって何かが進展したわけじゃない。ただ少なくとも「その物事を経験しなくともある程度の理解はできる」ということ,そして最近はSNSなどによって実際に物事を経験した人の言葉を見ることができるから,一昔前よりもさらに未経験者の「その物事」に対する理解は深まっているのではないかということは言える。

次はこれ。

ANの反論が書いてあるサイトに,こういう内容の反論が書いてあった。
同意なく生まれさせられて人生においてたくさんの苦痛を被る,少なくとも一回以上は必ず苦痛を被るということを道徳的,人道的に考えて容認できるというのだろうか?自分が胎児の立場になって考えても同じようにこんなことが言えてしまうのだろうか?私は全くすっきりしない。

次はこれ。

界隈(?)で割と話題になったこの人物。この画像も言ってる事全てANの説明として正しくないし,理論を分かっているようにして間違ったことを広めてほしくないと私は怒りを覚える。ANの風評被害だ。この人物はフォロワー数も多かったので尚更のこと。まあINTERNETの情報を信用しきるのもあまりいいことではないが。

INTERNETの悪いところはこういう部分だ。
最近の新聞は電子版も増えてきた。電子版は,言ってしまえば「見たい記事だけピンポイントで目を通し,見たいと思わない記事は微塵も見なくて済む」構造だ。新聞の電子版に限らず端末上のあらゆるものがそう。
つまり,自分の気に入らない考えや嫌いなものをいとも簡単にシャットアウトできるのだ。それで自分の精神は楽になるだろう。極度のストレスに苦しんで何も手につかないとかだったら精神の回復のためにいいのかもしれない。
しかし考えなしに異論をシャットアウトするようでは,自分の世界は縮こまって均一に偏ったものになってしまう。そうなると自分がいかに間違っている情報を知っていて,かつそのことを正してくれる人間が誰もいないかを全く自覚しないまま行動を続けていくことになる。
これは非常に危険なことだ。
私の固定ツイートはこのような内容だ。

INTERNETの持つこういう危険性は私にとっても耳が痛い話だ。だからこそ意識して自分の学んだ理論や自分で構築した理論が間違っていないか観察,検証し続けていく必要がある。

何か私が間違ったことをツイートしていれば遠慮なく教えてほしい。私はその指摘で「傷ついた」とか「腹立つ」とかそんなことよりも「勉強になった」と考えるので。TWITTERでもここでもかまいません。

次はこれ。

ANを嫌悪して全く耳を貸さない人,自分の考えを無理やりにでもいまだ正しいと思い込みたい人。そんな人たちにANを理解してもらうのは本当に難しい。頭を抱えている。
理解したくないのも無理はない。今子持ちだったら尚更。ANを理解するにあたって,自分が同意なく子どもを生んでしまったという事実を見つめなければならないのだ。

人間はほんとうに弱い。自分が犯した罪を認めたがらない。人間は愚かだ。これ以上今この件に対して何も手の打ちようがないことを含めて。

次はこれ。

これはこの人物とのやり取りを見ていただければ文脈がわかると思います。

こうやって自分と違う脅威にならない(マイノリティな)価値観を蔑んでいるままでは何も変わらない。私はこの人物と会話して思いました。

マジョリティかマイノリティかが問題ではない。その人自身がマイノリティかそうじゃないかなどは単一に考えられない。

これも何回も言ったことだ。

さて,次は先週からの課題を振りかえってみようと思う。

〇人生や任意の物事に対する考え方の違いがANの理論をなしているのか(だとしたら論理的帰結として結論は出せない)

人生に対する考え方の違いはあり,その人が人生は幸福だと思ったらそれは否定できません。つまり,幸福な人生も不幸な人生もある。それは認めましょう。ただ,この結果でも出生を肯定することはできません。人生が不幸だろうが幸福だろうが,同意なく生まれさせるのは容認できないことなのです。

〇バイアスなどで隠蔽されていて実際には体感していない苦痛や幸福を根拠・材料として「人生は不幸で満ちている」と判断することが有効なのかどうか(→実際の感覚として苦痛を感じていなければ、その苦痛にバイアスがかかっていようが隠蔽されていようがその苦痛を感じて困ることはないため問題ではない、という考え)

これについては多少意見が変わりました。確かにバイアスは存在します。ただ,感じていない苦痛にまで痛みや悲しさなどを感じることはないので,感じた儘がその人のすべてなのだろうと思います。人生はそこまで不幸に満ちていないかもしれません。だとしても,出生は容認できない行為です。理由は上と同じ。

〇ANは、いくら理論を展開し正当性を論じたとしても、相手が最終的に「それでも産む」と決断した際それ以上の干渉ができない(押しつけになる)という問題

これについては上のほうでも書きました。正直言って,いまだ解決できていません。私はこのことについて継続的に考えていきたいと思います。

前回の投稿にちよさき様が的を射たコメントをしてくださっていたのでこちらにも載せさせていただきます。

〔こんにちは、投稿興味深く拝見しました。

私見としては、人生の価値判断の根拠はその人が認識している快不快だけで、認識されていないものは考慮しなくてよいのではないかと思います。何らかのバイアスで歪められていたとしてもそれがその人にとっての全てであって、感じられなかった(隠蔽された)快不快は存在しないのと同じですし、極端な話、薬漬けの幸福/不幸を偽物だということは意味がないように思います。

その上で、人生をどう感じるかは人それぞれで「幸福な人生」の存在は否定できませんが、新たな人生を始めさせるのは「人生には苦痛が伴う」「生まれなかったことを後悔する人はいない」で、(人類に存続の義務がない限り)よくないことと言えるだろうと考えます。〕

ちよさき様もnoteにて多数投稿なさっているので,この機会にぜひ投稿に触れてみてはいかがでしょうか。

その他,こんなことを考えてほしいとか,この問題はAN的にどうなの?とか様々なご意見,ご質問あったらここでもTWITTERでも募集します。

それでは。

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