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自分の不幸が蜜の味

記憶しておきたいことがたくさんある。
頭の中に入らなくっても手に持っていないと気が済まない。

人にがっかりされるのが怖い。がっかりというほどではなくても、この人、知らないんだ。と思われる瞬間があることを恐れている。恥ずかしい、プライド、そんなもん。
知らない言葉があるとすぐに調べた。
いつか忘れると思ってスクリーンショットを撮って、ノートにまとめていた。見返さないけれど、暗記する行為もしないけれど、“知らないものではない“という事実をどうにか引きとめておきたかった。

自分が1番つらいと思っていたい。きっと痛みは比べてよいものではないが…。
人が苦しんでいると、自分が頑張っていないみたいで嫌なんだ。
人に自分よりも苦しんでほしくない、と言えば聞こえは良いかもね。
私はつらいことがあると何かしらの方法でその出来事や感情の変化を残しておく。Instagramにはそれ専用の鍵アカウントがある。
退学届や自立支援受給者証の写真、前回から今回までの通院のあいだに飲んだ薬の写真とその日の診察の感想。
Twitterには日々の些細な体調の呟きや弱音、愚痴、いつかの自分が傷つけられた話、読んだ本に対する感想…
もちろんこのnoteだってそうだ。
人から貰った手紙なんて読んだらすぐに捨てちゃうのにね。

文字や写真だけではない。
私はつい最近まで、爪や指先の皮膚を毟る癖があった。これはやめたくてもやめられなかったし、自分でも気持ち悪いと思っていた。
それとは別で、自分の体を刃物で切りつけていた時期があった。これは痛みに快感をおぼえたわけでも、その時間を現実逃避としていたわけでもなく、ただ自分が苦しんだ証(傷跡)が欲しくて意図的にやっていた。
人に見せびらかすことはしないが、傷が自分のお守りになっていた。頑張っているんだと言い聞かせる安心のための材料だった。

人から、「たくさん文章が書けてすごいね」と何度か言われたことがある。きっとそれは、感情の記録の取りこぼしが怖くて、事細かに書き留めておきたくて、自然と長くなってしまっただけだ。


暗記もしないのに書くノートはストレスになっていることに気づいてやめた。
自傷はほとんどしなくなった。年に数回あるかないか…今後0に収束していくと思う。

その他の記録が未だにやめられない。ダサいな、幼稚だな、と思いながらも自分の不幸をいつまでもかわいがっている。
そのせいで私は、楽しかったことが思い返せない。忘れたのか、無いのか…それすら分からない。

いつも病んでいるけれど、中途半端に元気になった時には必死になって自分が不幸で苦しい状況にあるんだとあの手この手で言い聞かせる。
不幸に耐えていることは、頑張っていることだと思うから。少しでも宙に浮けば、飛び立つよりも地面にしがみつきたくなる。

何が正解なのか、いまだに分からない。他の人は、愚痴を誰にどのくらいこぼして、どのくらい自分の世界を閉じ込めて生きているのだろうか。自閉傾向の私には難しいのかな。人と雑談するのは好きじゃないし、もっと建設的で意味のある話がしたい。本でも読み続けていれば良いのか?
でも、他愛のない話を呟く相手は必要なんだよな、人間のサガだろう。“平成くん”だってそうなんだから。


ああ、何かを捨てて強くならなきゃなあ。粗大ゴミになりそうだ。

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