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手紙と私


手紙は普段言えないことを伝えるための最強の手段だと思っている。何せ私はまだ20数年しか生きていないけれど、年が経つにつれてどんどん口下手になっていくようで、余計に手紙は使えるツールなのだ。小学校の時から、市内だけれど転校してしまった友達や、ご縁があって知り合った日本の南の方に住む友達とかと長〜い手紙でやり取りをしていた。おしゃべりするみたいに口語で書くのが好きで5.6枚は常だったと思う。レターセットの封筒は(そんなに入れるもんじゃないんだけど…)って見た目をいつもしてたのをなんとなく覚えている。便箋だけ足りなくなって、途中から違うメモ帳に書き連ねる。同じようにパンパンの封筒に書かれた手書きの宛名を郵便物から発掘すると胸がときめいてたような。書いていて思うけど私は手紙が大好きなんだ。

「思い出して欲しい」

いつしか手紙はおしゃべり道具ではなくなった。なんだか切実な思いが乗るようになった。いや元からそうだったかもしれない、小学生中学生ながらに。思い出話と近況だけで、手紙は成り立たなくなってくる。いつか会いたいね といつも書いていたんだろうか。遊びに来てね とか。分からない。結局上のふたりには会えずじまいだし、連絡先すら持っていないし今当時の家に暮らしているかも知らない。手紙はちょっとだけ、「叶わない約束」そのものかもしれない。私を届けるための手段だ。会えない私たちが会っているかのように、私がその住所に行ったかのように、いつか会えた日にはもっと仲良くいれるような楽しさを、私のこと忘れないでねというちょっと重たい気持ちと一緒に。

本当はとても会いたい 気がする

実は前述した転校してしまった子は、パタッと連絡が取れなくなった。文通の頻度は確かに落ちていたけれど、年賀状はやり取りしていたから、高校に上がって携帯を持つようになって、手紙より気軽に話せるんじゃないかと思ってLINEのIDを書いた。けど、年賀状も返ってこなくて、LINEも来なかった。私は忘れられてしまったのか、彼女が心を閉じたくなったのかなんなのか分からない。彼女の気持ちを尊重するけれど、でも心ががらんとしている。

元気ですか、あなたとのお絵描きが休み時間でいちばん楽しかったよ。あなたの上手な絵を真似して描いて、色を塗って、テストの時間にはエアピアノでお互い机を叩いてたのまで思い出した。転校先で嫌な思いを沢山したって手紙をくれた時、私はなんて言葉を掛けてたのか、いいのか悪いのか送った手紙の中身は二度と読めない。元気でいてよ 書いて思い出していると、気がするではなくて本当に会いたくなる。どこにいるの。ひどいじゃん!って言ってすぐ、この何年間が何事でもなかったかのように笑って、会えたらいいのに。

きっと当時の私は意識していなかったけど、確実に彼女は、9年間の人生の中で初めて出会ったいちばんの友達だったかもしれない。いつか会えたらいい、本当に。だから後悔はやめよう。

書くことでしか言えないことがある

口では軽く聞こえても、文字だと残るからだろうか、手紙でならかける。残ってしまうから書けないのではなくて、残るからこそ書きたい言葉があったりする。
話すよりも書く方が、気の利いたことが言えたりもする。なんでかはあまり考えたことがない。文字を起こすことが1番自分の気持ちを見つけてくれる。だから相手にもずっと素直に向き合える。ひねくれたわたしもまっすぐ相手のことを考えられる。その時間とその自分に酔っている、いい意味で。そうさせてくれる手紙という手段に出会えていてよかった。口下手だけど、口下手だから、頭の中にある伝えたいことは、本当に多い人間みたいだ。

いつ何があるか分からないけれど

縁がどう別れてしまうか分からない人生だからこそ、あと何回素敵な思い出ができるかを数えながら、言いたいことややりたいことは全部やるべきだ。本当にそう思うけど、私はそんな素敵なことは取っておく方がちょっと好き。唐揚げは最後に食べたい。その幸せで後ろの時間まで幸せでいたい。伝えたい言葉は、大事にとっておきたくなる。節目まで頑張って生きようと大袈裟ながら思う。あっためた言葉で相手を喜ばせるのが好き。口下手でも、ドライでも、分かってくれたら有難い。いつかあなたにも、お手紙書くかもしれないし✉️✍

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