駄文
ダラダラと考えたりしていることを文字に起こしてみる。
なんか漠然と悩んでいるわけではないが、思考が止まらなくなった時に
一気に文字に起こしてみることで、自分を掴もうとする自分の癖。
気持ち悪いと思うけど、読まなくてもいいが、ただの文字の羅列だと思っていただければ。
「働く」とは何か。そもそも根源的に「生きる」とは何か。
こういう哲学的命題を、ここ最近就職活動を通じて漠然と考えていた。
気づけば修士2年になり、就職活動も始まり、何社かに書類を出したりした。
驚いた。何に驚いたかと問われると「一般的な就職活動を始める自分」という存在にだ。
子供じみて恥ずかしいけど、特別になれると思っていた。
でも、振り返った人生はあまりにも平凡で起伏のないものに感じる。
とはいえ、恵まれていなかったわけではない、才能・機会があったらなれていたのか。
行動すら碌に起こせず、だだ時間と共に流れていただけなのに。
全て、全てが夢物語。
いつのまにか、ただの自分がひとり。
時間があったら、才能があったら、
それでも所詮はただの自分がひとり。
今までの人生を一言で表すとして「挑戦」と答えることのできる人間に憧れる。
あまり人に言っていないコンプレックス。
自分は恵まれているのかもしれない。
きっとそうなのだろう。
だから選択肢があって「挑戦」を避けてきた。
一般的に良いとされる大学に通った。
親戚からは期待をされた。
すごくしんどかった。
自信がなかったから。
周りの人は狡いと同時にかっこよかった。
一心不乱に生きている気がしたから。
もしかしたら自分も一心不乱に生きていたのかもしれない。
でもあの瞬間休んでいなければ、あの瞬間何かをしていれば。
今と違った世界が見れていたのかもしれない。
そういうどうしようもない後悔が頬を伝う夜がある。
常に余力を残しながら生きている。
それは一種の人間の本能的な自己防衛かもしれない。
でも、まだできる、きっとできる、過集中の時の自分ならできていた。
ずっとその状態がつづけばいいのに、体が持たない。わからない。
人間って不思議だ。体が持たなくて、体が動かなくてしんどくなる。
多分期待をしなければ、自分自身を諦めれば、こんな思いに雁字搦めにならない。
変に容量が良かったからか、心の奥底の自分は、自己肯定感が高くて、矜持も高いから始末が悪い。
下手に親戚より早く生まれたから期待をされた。ロールモデルにされた。
だから解放されたいと思っていた。
世間一般で言う大企業に入り、親孝行をしろというような呪縛。
みんなに見られているような感覚。
逃げたかった。
幼稚園の頃は、映画監督になりたかった。
小学生の頃は、漫画家になりたかった。
中学生の頃は、音楽家になりたかった。
気付いたら諦めていた。
行動すら碌に起こせていないのに。
夢を口に出さなくなった。
進路を、夢を、自分の将来を、
消去法で考えるようになった。
手元に残っていたのは、
たまたま嫌いじゃなかったものばかり。
「好き」の種類が、ベクトルが変わっていった。
そんな17歳の夜。
手元に残った結晶を集めて、好きになろうとした。
自分を偽ろうとした。踠いた。争おうとした。
人前で恥ずかしげもなく言えるくらいには「好き」を見つけた。
でも時に、自分の「好き」はどこか濁っているもののように見える時がある。
とはいえ、自信を持って好きと断言できる時もある。不思議だ。
大人になることとは「消去法で物事を判断できるようになること」なのかなと思う。
欲望の赴くまま、行動して、他人に迷惑をかけたり、それでも自分を中心に動く存在から、
周りや世間体をある程度気にして、法律を気にして、欲望に語りかけることに少し躊躇い、
ふと周りを見渡し、時には客観的に自分と周囲を眺める。
そうやって選んだ次の一手。
大人になるとはそういうことなのかもしれない。
大人になることは、1人になることだ。
現在だって1人暮らしをしているが、学費を親が支払っているから、所詮は親の監督下だ。
大人になるとひとりになる。
ほんとうにひとりになる。
ひとりで生きていく。
開放感と責任感。
それが大人なのだろう。
早く大人になりたい気持ちもある。
自分に絶望しそうだけど。
何が正解かわからなく彷徨い、悩み、困惑し、焦ることもあるだろう。
不安になったりもするだろう。
でも、もしかしたらそれが「生きる」ってことなのかもしれない。
何者にもなれない。特別にもなれない。
かといって普通にもなりたくない。
でもただの普通。
普通になれなかったから
特別になりたかったはずなのに。
特別になれずに、ただの劣った普通。
ただの劣った普通。普通。普通。普通。
自分の無価値と無力を突きつけられる毎日。
これが普通?多分普通。きっと普通。
どーせ普通。
心理学上では、諸説はあるけど人間の感情は6種類あるらしい。幸福、驚き、恐怖、悲しみ、怒り、嫌悪だそうだ。4種類もネガティブな感情があるのが不思議でたまらない。きっと今を生きている上で過半数のネガティブな要因を抱えながら生きているのが、当たり前なのかもしれない。
毎日ふと不安が心をざわつかせたりする。
何も成し遂げることのできてない不安感。
無駄な思考の横入り。
行動へのブレーキ。
思考のアクセル。
無駄な感情。
この無駄こそが生きていることの証明なのかな。
そう感じるし、そう思うことにする。
楽しい時は本当に楽しい。
だから生きる。
少しだけ明日を信じることにする。
明日があるのかはわからない。
明日はもしかしたら地球が爆発してるかもしれない。
明日はもしかしたら通り魔に殺されているかもしれない。
明日はもしかしたら、明日はもしかしたら、明日はもしかしたら、明日はもしかしたら。
多分変わっていない。普通。
どーせかわっていない。普通。
でもわからない。
ただ寄り道する。それは思考も行動も。
今いる場所、目的地、スタート地点ですら、わからなくなる。
でもそんな時、不安になる時、泣きたくなる時、道端に咲く花を見つけて喜ぶ。
一度歩きを止めて、しゃがんで花を見る。
生きるってそういうことなのかもしれないし。
そういった道端の花を美しいと思う心持ちが大事で、そういう花を見つけようとすること、寄り道をすること、そういう炉端の無駄を愛することが「生きる」ことなのかもしれないな。
そう思ってみたり、みなかったり。
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